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第2章
―― 原田凛々紗 ――
電話の向こうの担当者の声は、私の決意を歓迎しているようだった。
「原田さん! 大変光栄です。まさか、あの原田凛々紗さんが、私たちの研修に興味を持ってくださるとは。素晴らしい才能を持つあなたのようなダンサーが参加してくだされば、研修もより一層充実するでしょう」
喜びにあふれる声を聞きながら、私は冷静に尋ねた。
「ありがとうございます。……それで、研修の条件は以前伺った通り、外部との連絡は一切遮断されるのですよね? 携帯電話の使用も禁止で、手紙やメールのやり取りも制限されると」
担当者は少し戸惑った様子を見せたが、すぐにプロの口調に戻った。
「はい、その通りです。大変厳しい環境ではありますが、参加者の皆様には、完全にバレエに集中し、自己と向き合う時間を設けていただきたいと考えております。そのため、外部との接触は、緊急時を除き一切禁止とさせていただきます。また、契約期間中の途中退所も原則として認められません」
私は迷わず答えた。
「問題ありません。全ての条件を受け入れます」
自分の声が、信じられないほど落ち着いて聞こえた。外部との接触が遮断されるという条件は、私にとって千秋から逃れるための最高の隠れ蓑だった。彼からの連絡、彼の嘘、彼の存在。全てから遮断される。それは、自由を意味していた。
担当者は私の即答に驚き、改めて確認する。
「本当に、よろしいのですか? 一度研修に入れば、数ヶ月間、ご家族やご友人とも連絡が取れなくなりますが」
私は静かに答えた。
「ええ、構いません。私にとって、それは必要なことです」
「承知いたしました。では、詳細な手続きと出発準備について、早急にご連絡いたします。約一週間で全ての手配を完了させ、出発できるよう調整いたします」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
電話を切ると、心臓の鼓動が少しだけ穏やかになった。
自宅に戻る。千秋との生活を共にした、この広々とした家。かつては愛と温もりに満ちていたはずの空間が、今は嘘と裏切りの匂いを放つ箱のように感じられる。リビングの壁に飾られた結婚式の写真。棚に並べられた思い出の品々。それら全てが、私の目には汚れたガラクタのように映った。
私は黙ってそれらを手に取った。千秋が初めてくれたバレエシューズのミニチュア。二人で行った旅行先で買ったペアのマグカップ。彼が「凛々紗が一番似合う」と言って選んでくれた香水。一つ一つが、偽りの愛の象徴として心をえぐる。私はそれら全てをゴミ袋に詰め込み、まとめて玄関の外へ運び出した。
部屋から千秋の痕跡を消し終えると、私は自分の荷物をまとめ始めた。バレエの練習着、大切なレオタード、最低限の着替え。私の人生に必要なものは、驚くほど少なかった。スーツケースに荷物を詰めながら、心が少しずつ軽くなっていく。
翌日の夜、千秋が帰宅した。彼の体からは、微かなアルコールの匂いが漂っている。私を見つけると、いつものように抱きついてきた。
「凛々紗、ただいま。会いたかったよ」
彼の腕が強く私を抱きしめる。全身の筋肉が硬直した。彼の体温が、凍えるほど冷たく感じられる。昨夜、別の女と子供と過ごした体で、よくも私を抱きしめられるものだ。偽りの優しさが、胃の奥から込み上げてくる吐き気を誘った。
ゆっくりと、彼の腕を解く。
「ただいま、千秋」
自分でも驚くほど冷たい声だった。千秋は私の変化に気づいたようだ。
「どうしたんだい、凛々紗? 元気がないみたいだけど。何かあったのかい?」
眉間に皺を寄せる彼の心配そうな顔も、偽りにしか見えない。昨夜、萌々子を抱き、結菜と笑い合っていた光景が脳裏に蘇る。
内心の激しい痛みを押し殺し、私は作り笑いを浮かべた。
「ううん、何でもないわ。少し疲れているだけ。最近、体がだるくて」
千秋の顔色が一変した。彼は私の額に手を当てる。
「大丈夫か? 熱があるんじゃないか? すぐに病院に行こう」
その言葉も、空虚に響いた。私を裏切り、別の家庭を築いている男が、今さら何を心配するのか。
私は彼の腕をそっと押し退けた。
「大丈夫よ。少し横になれば治るわ」
千秋は納得せず、しつこく言う。
「いや、駄目だ。体のことだ。念のため、すぐに医者を呼ぶか、病院へ行こう」
私は彼の目を見た。その瞳の奥に、わずかな焦りが浮かんでいる。私が何かを疑っているのではないかと、勘ぐっているのだ。
「いいから。休めば治るって言ってるでしょ?」
少し強い口調で言うと、千秋は押し黙ったが、諦めきれない様子で私の隣に座り込み、持っていた紙袋を差し出した。
「実はね、凛々紗にプレゼントがあるんだ。少し早いけど、誕生日プレゼントだよ」
紙袋の中には、高級ブランドのロゴが入った小さな箱が入っていた。千秋は嬉しそうに言う。
「この前、凛々紗が欲しがっていたって言ってた、あのブランドの新作のバッグだよ。手に入れるのに苦労したんだ。君に似合うと思って」
私の心は冷え切っていた。私はそのブランドのバッグを一度も欲しがったことはない。むしろ、そのスタイルは私の好みではなかった。彼が必死に手に入れたのは、一体誰が欲しがっていたものなのか。結菜だろうか。その疑念が、深く突き刺さる。
千秋は私の沈黙に不安を感じたのか、腕をそっと掴んだ。
「凛々紗? どうしたんだ? 喜んでくれないのか?」
私は彼の腕を振り払い、思わず口を開いた。
「ねえ、千秋。私たち、いつになったら子供を作るの?」
千秋の顔色が一瞬にして変わった。彼は目を見開き、私を凝視する。その瞳には、動揺と焦りがはっきりと見て取れた。
「え、子供? どうして急にそんなことを言い出すんだ? 凛々紗はまだキャリアを優先したいって言っていたじゃないか」
声が、わずかに震えている。
「もういいの。私もそろそろ、家庭を持ちたい。千秋の子供が欲しい。私たちの子が欲しいの」
あえて強い口調で言うと、千秋は困惑した表情で私を説得しようとした。
「いや、でも、今じゃないだろう? 凛々紗のキャリアだって、まだこれからが本番じゃないか。それに、もう少し落ち着いてからでもいいんじゃないか?」
その時、千秋の携帯電話が鳴り響いた。彼の顔がさらに強張り、慌てて携帯を取り出す。画面に表示された名前を見て、表情はさらに険しくなった。
「ごめん、凛々紗。急な仕事の連絡だ。ちょっと席を外す」
千秋はそう言い残し、足早にリビングを出て行った。その背中が、私には逃げ出すように見える。私はその場に一人残され、深い絶望に包まれた。
千秋の携帯が、ソファの上に置き忘れられている。画面には結菜からのメッセージが表示されていた。「萌々子が熱を出した。早く来て」。その文字を見て、胸が締め付けられるような痛みに襲われる。彼は私を欺き、子供のことも、夫婦の未来も、全てを嘘で塗り固めていた。
彼は、私の妊娠に気づいていない。私が今、彼の子を宿していることを、知らないのだ。だが、知ったとしても、彼の態度は変わらないだろう。彼の心は、もう私にはないのだから。
込み上げてくる吐き気に耐えきれず、私はトイレに駆け込んだ。胃の中のものが、全て逆流する。何度も嘔吐を繰り返し、全身の力が抜けて壁にもたれかかった。生理も、もう随分と来ていなかった気がする。まさか。
千秋は、その夜も帰ってこなかった。私は翌朝、一人で産婦人科を訪れた。医師の口から告げられた言葉が、私の人生をさらに暗い淵へと突き落とす。
「おめでとうございます、原田さん。妊娠していますよ。4週目に入ったばかりです」
私は、その言葉に何も感じなかった。喜びも、悲しみもない。ただ、腹の中に、千秋の血を引く命が宿っている。この事実だけが、冷たく重くのしかかった。この子に、未来はあるのだろうか。いや、きっとない。そう、直感した。
この直感は、予想を超える形で的中する。この子の命を奪うのは、他ならぬ千秋自身だった。それも、衆人環視の悪夢のような夜に。
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