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第3章

―― 原田凛々紗 ――

病院の待合室で、私は呆然と座っていた。医師の言葉が頭の中で何度も反響する。「妊娠していますよ」。無意識のうちに、指先が腹部を撫でていた。そこに、小さな命が宿っている。千秋の、そして私の子。しかし、直感する。この子には、未来がない。

「なぜ、今なの?」

唇から、低い声が漏れた。この裏切りの最中に、なぜ命が宿ったのか。この子は、偽りの愛から生まれた命だ。それでも、腹の奥に感じる微かな温もりを、私はまだ完全には否定できずにいた。

病院を出て、人通りの多いカフェに入った。窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺めていたその時、視界に信じられない光景が飛び込んでくる。千秋が、結菜と萌々子を連れて、楽しそうに歩いている。三人は手をつなぎ、まるで本当の家族のようだった。萌々子は千秋に抱き上げられ、結菜は千秋の腕に寄り添っている。私はとっさに身を隠すように、カフェの奥へと移動した。

彼らの声は聞こえないが、その光景が深い絶望を刻み込む。結菜は千秋に何かを訴えているようだった。千秋は真剣な表情で彼女の言葉を聞き、時折、萌々子の頭を撫でていた。

やがて、彼らはカフェの近くのベンチに座った。結菜が千秋に言う。

「千秋さん、最近、萌々子の様子がおかしいわ。あなたと凛々紗さんのこと、どこかで見てしまったんじゃないかしら。萌々子、私に『パパは、いつ本当の家族になってくれるの?』って聞くのよ」

結菜の声は、悲痛な響きを帯びていた。千秋は結菜の手を握り、慰めるように言う。

「大丈夫だよ、結菜。凛々紗は、僕を信じている。すぐに解決するから」

心が、冷たい鉄で締め付けられるように痛んだ。千秋は、私を「信じている」と言いながら、欺き続けている。その言葉の裏にある冷酷な嘘が、深く傷つける。

結菜は少し落ち着いたのか、千秋に問いかけた。

「私たち、いつになったら結婚できるの? 萌々子のためにも、早く家族になりたいわ」

千秋は結菜の言葉を遮るように言った。

「分かっているよ、結菜。でも、今はまだだ。凛々紗に申し訳ない気持ちがある。彼女を傷つけることはできない」

「申し訳ない?」結菜は眉をひそめる。「あなた、凛々紗さんのこと、本当に愛しているの? そうじゃないでしょう? だったら、早く離婚して、私たちと本当の家族になってよ」

千秋は結菜の頬に手を触れ、唇を重ねた。

「今は、もう少しだけ我慢してくれ。必ず、君たちを幸せにするから」

二人は立ち上がり、カフェの前を通り過ぎていく。結菜は去り際、一瞬こちらを振り返り、口元を歪めた。彼女は、私がここにいることを知っていたのだ。 そう確信した。

彼らが遠ざかるのを確認し、私はゆっくりとカフェの奥から出た。体が震え、涙が止まらない。千秋は私に「申し訳ない」と言いながら、別の女とキスをしていた。彼の心は、完全に私から離れている。

かつて、結婚する前、千秋は私に言った。

「凛々紗、もし僕が君を裏切るようなことがあれば、どんな理由があろうとも、君は僕を捨てていい。僕は、君の幸せを一番に願っているから」

あの時の彼の言葉は、私にとって絶対の誓いだった。しかし今、その誓いは嘲笑のように響く。彼は私を裏切り、別の女性と子供まで作っていた。全て嘘だったのだ。

私は決意した。彼の言葉通り、彼を捨てる。この偽りの愛から、完全に抜け出すのだ。腹に宿った命については、まだ答えが出せなかった。この子を、一人で育てる覚悟など、今の私にあるのだろうか。せめて、もう少しだけ時間が欲しい。

携帯電話を取り出し、産婦人科に電話をかける。

「あの、先日、妊娠の診断をしていただいた原田凛々紗ですが……。今後のことで、一度しっかり相談をしたくて。精密検査の予約をお願いできますか。」

声が震えるのを必死に抑えた。そして次に、弁護士に連絡を取り、離婚の手続きを依頼した。

数日後、千秋から電話がかかってきた。彼の声は疲れているようだった。

「凛々紗、もしもし? 元気にしてるか?」

私は携帯電話を見つめた。今日が自分の誕生日だということに、初めて気がつく。最近の出来事に心を奪われ、誕生日さえ忘れていた。そんな自分が、悲しかった。

「ええ、元気よ」

声は、ひどく冷たかった。

「ごめん、凛々紗。今日は君の誕生日なのに、すぐには帰れそうにないんだ。今、急な海外出張が入ってしまって。本当にごめん」

彼の言葉に、心が凍りつく。海外出張と嘘をつき、また結菜と萌々子の元へ行くのだろう。彼の嘘に、胃の奥から込み上げてくる吐き気を必死に抑えた。

「そう……分かったわ」

自分でも驚くほど落ち着いた声だった。千秋は私の返事に安心したようだ。

「本当にごめん。でも、ちゃんとプレゼントは用意してあるからね。帰国したら、最高の誕生日を祝ってやるよ。許してくれるか?」

私は目を閉じ、頷いた。

「ええ、分かったわ。無理しないでね」

それ以上、彼の声を聞くのが苦痛だった。彼の嘘、彼の偽りの優しさ。全てが私を深く傷つける。私は彼の言葉を遮るように、電話を切った。

携帯電話を握りしめ、心が激しく波打つ。彼が私に嘘をつき、別の女と子供と過ごしている間、私は一人で、この偽りの愛の報いを受けている。彼への愛情は、もう一切感じられなかった。

検査の予約日は、すでに決めている。誕生日の翌日だ。 私は、この偽りの結婚生活を終わらせるつもりでいた。その後に、この子の未来を、一人で決めよう。誰にも邪魔されずに。

電話を切った千秋は、スマートフォンを握りしめ、眉をひそめていた。凛々紗の声は、いつもと少し違っていた。彼女の態度に、形容しがたい不安を感じる。何かが、失われようとしている。そんな予感が、胸をざわつかせた。

千秋の予感は的中する。だが、彼はまだ理解していない。失われるのは凛々紗ではなく、彼自身のすべてだということを。そして、その引き金を引くのは、他ならぬ千秋自身の手だった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  2. 第2章第2章
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