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第2章 崩れ去る幻想、冷たい雨の中の決断

凛が自室に戻ったとき、携帯電話が震えた。画面には娘の名前。一瞬指が止まるが、通話ボタンを押した。 「ママ!雅おば様ね、明日の朝一番で来てくれるって!パパが言ってたの、雅おば様が来たら毎日お料理作ってくれるって。ママの料理なんて、もう食べたくない!」 葵の無邪気な残酷さが、受話器越しに容赦なく響く。 「それとね——パパが言ってたの。ママみたいなつまらない人は、どこかへ消えちゃえばいいって」 凛は三秒ほど沈黙し、初めは胸が痛んだが、やがて吹っ切れてそっと微笑んだ。そして、優しい口調で同意の言葉を口にした。 「そう。ママみたいなつまらない人は、消えればいいのよね」 「えっ?ママ、何—— 通話を切る。凛はスマートフォンを取り出し、自宅の固定電話の設定画面を開いた。彼女が自ら構築した九条家のスマートホームシステム——その管理権限は、まだ彼女の手にある。 『着信転送設定』 『転送先:葵の携帯電話番号』 凛は、九条家の固定電話にかかってくるすべての着信が、葵の手元で鳴るよう設定した。慧からの連絡も、千代からの呼び出しも、すべて。これで、自分を経由する必要は一切なくなる。 あとは、自分の仕事用端末にインストールしている学校連絡アプリの通知だけが、彼女と娘を繋ぐ細い糸となった。万一、葵に何かあったとき——それだけは、母としての最後の理性だった。 凛はクローゼットからスーツケースを引き出した。七年間、この家に残した私物は驚くほど少なかった。簡素な衣類、書籍、ノートパソコン、母の形見の指輪のみ。慧が贈ったブランド品や宝石には一切手を触れなかった。それらはすべて、この「偽りの家」の装飾に過ぎない。 荷物を詰めながら、凛はもう一台の端末を取り出した。彼女が自ら設計した九条家のスマートホーム管理システム。指先が画面を踊る。 『管理者権限変更』 『生体認証:高橋凛→削除』 『全門パスコード変更』 『外部アクセス無効化』 「……これで、私にはもう関係ない」 次に凛は九条グループの財務システムにアクセスし、結婚前の特許収入と七年間の無給労働の対価として準備していた債権行使を実行した。送信ボタンを押した瞬間、彼女の個人資産が法的に保全される。慧が知ったら、どんな顔をするだろう——いや、もう知る必要はない。 スーツケースを閉め、凛は机の上に封筒を置いた。弁護士名義の離婚協議書と顧問契約解除通知。封筒には慧の名前が記されている。 「長谷川」 凛は廊下に立つ執事を呼んだ。彼は最初から、すべてを知っていたかのような目で凛を見ていた。 「奥様……」 「この封筒を明日の朝、旦那様に渡して。それと——」 凛はもう一枚の書類を取り出した。 「吉田秘書に伝えて。彼が三億の損失を出した際、私が書いた修正パッチのコードは今夜限りで無効になる、と」 長谷川が目を見開いた。初めて知る事実だった。 「奥様、まさか……」 「九条グループのAIシステム『J-ALPHA』の保守は、すべて私が行っていた。七年前から今日まで。明日になれば慧も吉田も知ることになる。長谷川——あなたは、最初から知っていたでしょう?」 長谷川は微かにうつむいた。彼は知っていた。この七年間、奥様がどれだけのものを背負ってきたかを。しかし、何も言えなかった。言えば、この家の均衡が崩れることを恐れたからだ。 「ええ……奥様は、この家の本当の柱でした」 「ありがとう。でも、もう私の問題ではないわ」 凛はそう言うと、長谷川に背を向けた。彼はその背中に向かって、静かに頭を下げた。 最後に凛はスマートフォンの写真フォルダを開き、慧と葵の写真をすべて選択した。思い出の数々が青いチェックマークに覆われていく。一枚だけ、葵がまだ幼かった頃の写真が目に止まった。あの頃は、まだ笑っていた。しかし、その写真も、今はただの過去の欠片だ。 迷うことなく「削除」を押した。 『すべての項目を削除しますか?』 「はい」 七年間の記憶が電子的に消去された。心の傷は簡単には消えない。だからこそ——もう、自分を削ってまで守るべきものなど何もない。 凛は玄関の扉を開けた。外はまだ雨が降っていたが、心は不思議なほど晴れやかだった。 一度だけ振り返る。七年間住んだ屋敷が雨のカーテンの向こうに霞んでいた。暖炉の灯りが漏れるリビングには、まだ「偽りの家族」がいる。自分を追い出し、勝利を確信しているはずだ。 だが、明日の朝——慧が目覚めたとき、彼の帝国はすでに足元から崩れ始めている。システムは止まり、家は死に、妻は消えた。そして、彼は初めて知るだろう——自分の成功の根幹に、誰がいたのかを。 凛は傘をささず、雨の中へと歩き出した。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、もうわからない。ただその瞳には、氷のような冷たい決意が宿っていた。 タクシーが止まる。行き先を告げる必要はなかった。 凛は空を見上げた。雨はもう、冷たくなかった。

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章一覧

全280章

  1. 第1章第1章 見棄てられた妻の覚醒、雨の日の誕生日
  2. 第2章第2章 崩れ去る幻想、冷たい雨の中の決断
  3. 第3章第3章 すれ違う離婚協議書、無関心が招く代償

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