メインコンテンツへスキップ

第3章 すれ違う離婚協議書、無関心が招く代償

その翌朝。 夜が明け、雨上がりの空から硬質な日差しが降り注いでいた。九条家の邸宅では、家政婦の和子がいつも通りにカーテンを開け、リビングに光を入れる。彼女の目に留まったのは、昨夜遅くに慧と葵が帰宅した際、誰も手をつけなかったサイドボードの上の家族の絵だった。凛によって伏せられていたそれを、和子は静かに元に戻した。 玄関のチャイムが響く。和子がドアを開けると、キャリーケースを引いた雅が立っていた。白いコートに身を包み、口元には優雅な微笑みを浮かべている。 「おはよう。今日からしばらく、お世話になるわね」 雅は新しい女主人のように邸内へ足を踏み入れた。ちょうど階段を駆け下りてきた葵が、歓声をあげて雅に抱きつく。 「雅おば様!」 二人の笑い声が広いリビングに響く。和子はその光景を一瞥し、黙ってキッチンへ向かった。 そこへ、二階の書斎から慧が降りてきた。寝間着のまま、手にしたスマートフォンを凝視している。顔色は優れず、眉間には深い皺が刻まれていた。 「慧さん、おはよう。なんだかお疲れのようね」 雅がソファから声をかけるが、慧の耳にはほとんど届いていない。 彼の頭を占めていたのは、今朝になって初めて確認した吉田秘書からの緊急メッセージだった。『社長、J-ALPHAのメインシステムに原因不明のエラーが発生。全サービスが停止しています。至急ご連絡ください』。それだけではない。昨晩、凛から届いていた二通のメール。『離婚協議書送付の件』『顧問契約解除通知』。慧はそれらを、つい先ほど開いたばかりだった。 「離婚……だと」 慧の口から絞り出すような声が漏れる。 「パパ、どうしたの?」 葵が不思議そうに尋ねるが、慧は答えず、和子を振り返った。 「和子、昨晩、何があった」 「……奥様は昨夜、旦那様がお戻りになる前にお帰りになって、荷物をまとめられました。家族カードもドレッサーに置かれていて……その後、すぐにお出かけに」 「なぜ、すぐに報告しない」 「旦那様は書斎に入られて、そのままお休みになったご様子でしたので……申し訳ございません」 そこへ、執事の長谷川が封筒を手に現れる。封筒の表には慧の名が、凛の几帳面な筆跡で記されていた。 「旦那様。奥様より、こちらをお預かりしておりました」 慧は封筒を受け取る。中には、凛の署名が入った離婚協議書の原本と、九条グループ顧問契約解除通知書が入っていた。昨夜のうちに彼女がこの邸宅へ戻り、弁護士に作成させた書類を置いていったのだ。ドレッサーに残された家族カード。システムの異常停止。すべてが一本の線でつながる。 慧の手が微かに震えた。怒りなのか、戸惑いなのか、彼自身にも判然としない感情が胸の内で渦を巻く。 「……ふざけるな。吉田はどこだ。すぐに繋げ」 慧の命令に、長谷川は一礼して書斎の固定電話へ向かう。雅は相変わらずソファで足を組み、葵の髪を撫でながら微笑んでいた。 「慧さん、お仕事なら先に片付けてね。私は葵ちゃんと朝ごはんの相談をしているから」 「雅おば様がね、特製オムレツを作ってくれるって!」 葵の無邪気な声が、張り詰めたリビングの空気と奇妙な対比を成していた。 和子はキッチンで朝食の準備を進めながら、胸の内で確信していた。この家の本当の柱は、昨夜この家を出て行った。そして、その柱が失われた今、何かが決定的に変わるのだと。長谷川もまた、無言で執務に戻りながら、同じ思いを抱いていた。 慧はスマートフォンを握りしめ、書斎へ急ぐ。その足音だけが、やけに大きく屋敷に響いた。 雅は葵の髪を撫でながら、リビングの窓の外に目をやった。雨上がりの空は、どこまでも晴れ渡っている。 「いいお天気ね。今日は何をして遊ぼうか」 葵は無邪気に笑った。その笑い声だけが、静かに狂い始めた歯車の音をかき消していた。 和子はその笑い声を背に受けながら、食器棚のガラスに映る自分の顔を見つめた。奥様——凛がこの家を出てから、まだ一日も経っていない。それなのに、この邸宅はすでにどこか歪で、落ち着かない空気に満ちている。新しい女主人のように振る舞う雅。無邪気に懐く葵。そして、事の重大さにまだ気づかない慧。 長谷川が書斎から戻り、和子と目を合わせた。彼は無言で首を横に振る。吉田とはまだ繋がらないのだろう。 和子は小さく息を吐き、朝食の準備に戻った。彼女にできることは、もう何もなかった。ただ——この家の歯車が完全に噛み合わなくなる日が、すぐそこまで来ていることだけは、確かだった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全280章

  1. 第1章第1章 見棄てられた妻の覚醒、雨の日の誕生日
  2. 第2章第2章 崩れ去る幻想、冷たい雨の中の決断
  3. 第3章第3章 すれ違う離婚協議書、無関心が招く代償

新着