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第2章 これからはもう、彼を愛さない

正司は、目の前の自分を、身を焦がすほど愛しているはずの女を見つめた。

別れを告げた彼女は、涙を流すことも、問い詰めることもなく、怒りの感情さえ一片も見せなかった。

その不気味なほどの静けさに、正司はわけもなく胸騒ぎを覚えた。

しかし、その焦燥はすぐに、より深い怒りへと形を変える。

「梨夏、気でも狂ったのか?」

彼は指の間の煙草を握り潰して地面に投げ捨てると、低く押し殺した声で威嚇するように言った。

「言ったはずだ、これはただの芝居だと。真奈は病人なんだぞ。来月の陽射しさえ、浴びられるかどうか……そんな相手に、お前はこのタイミングで離婚を持ち出して、俺を脅すつもりか?」

「脅す?」

梨夏はフッと自嘲気味に笑った。

「正司さん、知り合って七年、結婚して三年。私がいつ、あなたを脅したことがあった?」

彼女はいつも、都合のいい物分かりの良い妻だった。

滝沢の家の人間から冷遇されても黙って耐え、正司の帰りが深夜になろうとも、いつもリビングに明かりを一つ残して待っていた。

かつて自分をどん底から救い出してくれたこの男のために、彼女はすべての理不尽を胸にしまい込んできたのだ。

だが、その健気さの結果がこれだ。

彼女が自分から離れられないと高を括っていたからこそ、彼は堂々と親族や友人を集め、本妻の目を盗んで、別の女に盛大な結婚式を贈った。

「本気よ」 梨夏は一歩後ろに下がり、彼との距離を空けた。

彼から漂う、かつて自分を夢中にさせたモミの木の香りが次第に薄れ、代わりに吹きつけてくる夜風が、混濁していた彼女の意識を完全に覚醒させた。

「法的な効力のない、偽りの結婚式だって言ったわよね?」

梨夏は彼を見つめた。その眼差しは、まるで見知らぬ他人を見るかのように冷ややかだった。

「私たちが離婚すれば、あなたはすぐに彼女と籍を入れられる。 そうすれば、彼女はただの形だけじゃなく、本当の奥様になれるわ。その方が、よほど筋が通ってるでしょう?」

「梨夏!」正司は鋭い声で彼女の言葉を遮った。こめかみの青筋がぴくぴくと引き攣っている。

「辛い思いをさせたなら、帰ってからいくらでも埋め合わせはする。 株でも、不動産でも、欲しいものは何でもやる」 その口調には、有無を言わせぬ強引さがあった。「だが離婚だけは、口にするな」

「正司さん……」 弱々しい声が、回廊の向こうから響いた。

いつの間にか、真奈が二人を探しに来ていた。

重厚なウェディングドレスの裾を持ち上げた彼女の顔は、紙のように真っ青だった。

片手で壁に寄りかかり、今にも消え入りそうな、憐れみを誘う眼差しで二人を見つめている。

「お姉ちゃん、正司さんを責めないで……全部、私が悪いの」真奈は目を赤くし、大粒の涙をこぼした。 「本当に正司さんを奪うつもりなんてなかった。私、ただ……一度でいいからウェディングドレスを着てみたくて。私にそんな資格がないのは分かってる。でも、もう時間がないの……」

そう言うと、彼女は激しく咳き込み、その華奢な身体が大きく揺れた。

正司はさっと顔色を変え、大股で駆け寄ると、真奈を強く抱きとめた。

「真奈、ここは風が強い。何しに来たんだ!医者から安静にしていろと言われているだろう!」

彼の目に浮かぶ焦燥といたわりは、梨夏がこの数年間、一度として向けられたことのないものだった。

正司の胸に寄りかかりながら、真奈は梨夏に視線を向けた。

涙に濡れたその瞳に、謝罪の色など微塵もない。そこにあったのは、勝ち誇ったような歪んだ優越感だけだった。

「正司さん、早くお姉ちゃんをなだめてあげて。私は大丈夫だから……一人で戻れるから……」 真奈は弱々しく言いながらも、その手は正司の袖口を固く握りしめて離さない。

正司は氷のように冷たい視線を梨夏に投げつけた。「梨夏、これ以上、無慈悲な女だと思わせるな」

彼の言葉は冷徹な刃となって長い回廊を突き抜け、まっすぐに梨夏の心臓を抉った。

正司は真奈を横抱きにすると、二度と振り返ることなく、足早に控え室の方へと去っていった。

バージンロードの向こう側にいた親族や友人たちも駆け寄り、心配そうにこの悲運の恋人たちを取り囲む。

梨夏の実の両親と兄は、彼女に非難の視線を送っていた。まるで、真奈の晴れの日を台無しにした大罪人とでも言うように。

彼らのうち誰一人として梨夏に歩み寄る者はなく、ただ真奈の周りに集まり、彼女を守るように去っていった。

誰もいなくなった回廊に、梨夏は一人立ち尽くしていた。足にはまるで鉛が注がれたかのように重い。

夜風が次第に強まり、彼女の長い髪を容赦なく乱した。

ポケットの中で、不意にスマートフォンが震えた。

実の母親である伊織からのメッセージだった。

『梨夏、真奈ちゃんは可哀想な子なのよ。あの子には私たち以外に家族はいないし、今はあんな重病を患っているんだから。人助けだと思って、あの子の最期の願いを叶えてあげなさい。 正司さんの心の中にいるのは、本当はあなたなんだから』

人助け、か。

梨夏は画面の文字を見つめ、ただただ滑稽に思えた。

何事もなかったかのように振る舞い、自分の夫が名ばかりの妹と結婚するのを黙って見届け、彼女に寄り添ってその心残りを埋めてやること――それが人助けだというのか。

真奈はすでに彼女の居場所を奪い、篠崎家のお嬢様として二十年以上も過ごしてきた。それなのに、今度は夫まで甘んじて譲れというのか。

自分が同意せず、譲歩しなければ、それは悪辣で冷酷ということになるらしい。

梨夏は冷ややかに鼻で笑うと、別のメッセージ画面を開いた。

見知らぬ番号から送られてきた、真奈からのものだった。

『梨夏、正司さんと結婚するのは、本来なら私だったはず。あなたが私のすべてを奪ったのよ。 今に思い知ることになるわ。正司さんも、篠崎家のみんなも、本当に愛しているのは私だけ。あなたなんて、何者でもないってことをね』

添付されていたのは一枚の写真。

正司が真奈の前に跪き、彼女の足に特注のクリスタルシューズを履かせている光景だった。

「梨夏、見た? 正司さんは、私のためにしか跪かないのよ」

「今夜、彼は滝沢家のプライベートヴィラで私と結婚式を挙げるの。 見に来る気はない?」

スマートフォンに遺されたメッセージの数々を見つめながら、 梨夏は思わず自嘲の笑みを漏らした。

正司はいつも、真奈をただの妹としてしか見ていないと言っていた。

だが、この三年間ずっと自分にはよそよそしかった夫は、梨夏には一度も向けたことのないこの上ない優しさを、「妹」と称する女にすべて注いでいた。

それどころか、自分を欺き、親族や友人と結託して、彼女のためにこれほど盛大な結婚式まで用意したのだ。

梨夏の瞳に涙が溢れそうになったが、必死にこらえて奥へと押し戻した。

すでに完膚なきまでに打ちのめされているのだ。これ以上泣くのは、あまりに惨めすぎる。

梨夏はスマートフォンをバッグに放り込んだ。

そして踵を返し、正司へのすべての感情をこの場所に葬り去った。

彼は彼女を救った。だから、彼女は彼の望みを叶える。

これからはもう、二度と彼を愛さない。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全136章

  1. 第1章第1章 馬鹿げた結婚式
  2. 第2章第2章 これからはもう、彼を愛さない
  3. 第3章第3章 離婚

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