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屋敷に戻った頃には、日はとっぷりと暮れていた。

広大な邸宅は、静まり返っている。

梨夏は明かりもつけず寝室へ向かうと、引き出しを開け、一通の書類を取り出した――離婚届だ。

今夜、正司がヴィラで結婚式を挙げることを知った瞬間に、あらかじめ用意しておいたものだった。

心のどこかで、まだ一縷の望みを抱いていたのかもしれない。

しかし、今夜の出来事が、彼女を完全に目覚めさせた。

窓から差し込む月明かりを頼りに、彼女は一画一画、妻の署名欄に自分の名前を書き入れた。

私物を整理していると、ウォークインクローゼットの片隅で、まだ封も切られていない一本のネクタイが目に入った。

彼女が自らデザインし、三軒もの工房を渡り歩いてようやく見つけた生地で仕立てたものだ。正司の二十八歳の誕生日に贈るはずだった。

彼女はそのネクタイを手に取ると、迷わずゴミ箱に投げ入れた。

かつて宝物のように思っていたものでも、一度嘘と裏切りに塗れてしまえば、ただの不快なゴミに過ぎない。

スマートフォンの電源を入れると、未読メッセージが一件表示された。

以前、投資業界にいた頃のビジネスパートナーからだった。

「梨夏さん、頼まれていた医療プロジェクトの件、目処が立ったよ。 本当に、戻ってくる気になったのか?」

梨夏は画面を見つめた。その瞳に、久しく消えていた鋭い光が宿る。

結婚後、義父母から「表舞台には立たず、滝沢家の妻として正司を第一に支えてほしい」と言われ、彼女は自身のキャリアを隠し、自ら立ち上げた会社からも退いた。彼の陰で支える女でいることに甘んじたのだ。

彼のために、自らの翼を折った。

だが、今こそすべてを取り戻す時だ。

「ええ。明日の午前十時、時間通りにオフィスへ行くわ」

送信を終えると、彼女は正司の連絡先をブロックし、すべてのデータを削除した。

別邸にある自分の荷物をすべてスーツケースに詰め終えると、正司の秘書に連絡を入れた。

すべてを終えると、梨夏は振り返り、正司と三年もの間暮らしたこの空間を最後にもう一度だけ見つめた。

そして背を向け、スーツケースを引いて、二度と戻らない扉を開けた。

***

翌日。

市役所の前。

梨夏は、洗練されたビジネススーツに身を包み、長い髪をすっきりとまとめ上げていた。その顔には精緻で冷艶なメイクが施されている。

午前九時きっかり。

一台の黒いマイバッハが、ゆっくりと路肩に停車した。

ドアが開き、正司が降りてきた。

今日の彼も仕立ての良いスーツを着こなしていたが、その目にはくっきりと赤い筋が走り、明らかに一睡もしていない様子だった。

梨夏を認めた瞬間、彼の目に驚きと動揺が走った。

彼の前ではいつも専業主婦らしい柔らかな姿しか見せてこなかった梨夏が、これほどまでにプロフェッショナルなオーラを纏うのは初めてのことだった。

スーツを着た彼女が、これほど颯爽と美しいとは思いもしなかった。

だが次の瞬間、彼の表情は一転して、険しいものに変わる。

正司は大股で梨夏の正面に歩み寄ると、怒りを押し殺した声で言った。

「梨夏、いい加減にしろ。昨夜は一晩中、病院で真奈に付き添っていたんだぞ。医者からは危篤通知が二度も出された。俺がどれだけ疲弊しているか、お前には分からないのか? 少しは物分かりが良くなったらどうだ!」

昨夜、秘書から「今朝九時に梨夏様が市役所の前で待っている」と告げられた時、正司はすぐに電話をかけた。

しかし、すべての連絡手段がブロックされていることに気づき、やむなくここへやって来たのだ。

彼の目には、梨夏がただの我が儘を言っているようにしか映っていなかった。

結婚して三年、ただの一度も逆らわず、すべてを自分に合わせてきた女だ。

その彼女が、本気で離婚するはずがないと正司はそう、高を括っていた。

これはただ、真奈を放り出してでも自分に会いに来させようとする、彼女なりの稚拙な引き止め工作なのだと、高を括っていた。

「滝沢さん」

梨夏が口を開いた。その声は氷のように冷たく、呼び方まで変わっていた。

正司は一瞬虚を突かれ、眉をひそめた。「今、何と呼んだ?」

梨夏は答えず、バッグから署名捺印を済ませた離婚届を取り出し、彼の前に差し出した。

「離婚届です。財産分与は一切求めません。滝沢家のお金は一円もいただきませんから、そちらの欄にサインを」

梨夏は彼の目を見つめ、一言一言、引導を渡すように告げた。

「滝沢さん、問題がなければ、今ここで」

常に冷静沈着な正司の黒い瞳に、初めて、信じられないものを見たような動揺が、かすかに走った。

彼は、わずかに青ざめた梨夏の顔を見つめ、嘲るように口の端を歪めた。

「梨夏、そんな駆け引きで俺の気を引けると思ったのか?幼稚だとは思わないか?」

彼は彼女の従順さに慣れすぎていた。

この七年間、彼女はまるで水のようで、彼が望むままにどんな形にも収まった。

彼の好みに合わせ、自らを抑えることを厭わない、そんな梨夏が本気で自分から離れたがっているとは、到底信じられなかった。

だが、梨夏は静かに彼を見つめ返すだけだった。

いつもは熱い愛情を湛えていたその瞳には、今や温度のない氷の膜が張っている。

彼女は以前のように慌てて弁解しようとはせず、ただ、目の奥の笑っていない淡い微笑を浮かべるだけだった。

「私が芝居をしているとお思いなら、今すぐサインをして、私の化けの皮を剥がしてはいかがですか?」 梨夏は小さく首を傾げた。「それとも、サインできないのは……実は滝沢さんの方だったりして?」

正司の纏う空気が、一瞬にして氷点下まで冷え込んだ。

彼は梨夏の目を射抜くように見つめ、低く言い放った。「梨夏、後悔するなよ」

正司は梨夏の手から離婚届をひったくり、万年筆を取り出した。まさにサインをしようとしたその時、場違いな着信音が唐突に鳴り響いた。

正司の手が止まり、彼は忌々しげに電話に出た。

通話中、彼の眉間に徐々に深い皺が刻まれていく。

電話を切ると、正司は振り返り、梨夏を冷たく見下ろした。

「会社で緊急のトラブルが起きた。すぐに向かわなければならない」 その口調は、またしてもいつもの、上から目線で、無関心なものに戻っていた。「離婚の話は、また後だ」

梨夏が返事をするのも待たず、正司は身を翻すと、黒いマイバッハへと大股で戻っていった。

梨夏はその場に立ち尽くし、車が通りの向こうに消えていくのを見送った。

胸の奥で、理由もわからぬ、ちくりとした痛みが、走った。

正司にとって、自分の優先順位は、いつだってあらゆる用事の後回しだった。

離婚の手続きでさえも。

だが、まあいい。離婚すると決めたのだ。今この瞬間でなくとも、結果は変わらない。

梨夏は手を挙げてタクシーを止めると、三年間、一度も足を踏み入れなかった、あの場所へと向かった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全136章

  1. 第1章第1章 馬鹿げた結婚式
  2. 第2章第2章 これからはもう、彼を愛さない
  3. 第3章第3章 離婚

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