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第1章
「一口だけでいいの」 西園寺絢子の声は、静まり返ったダイニングに虚しく響いた。 彼女は夫、鷹司暁の前に立ちはだかり、その視線を受け止めていた。 テーブルの中央には、彼女が三時間かけて作った抹茶のオペラが置かれている。艶やかな緑のグラサージュの上で、三十本の細い蝋燭が静かに揺らめいていた。 暁は、絢子が存在しないかのように、彼女の肩越しにリビングの酒が並んだキャビネットを見つめている。 初冬の冷たい空気を纏ったまま帰宅した彼は、玄関で靴を脱ぐと、絢子が一言も発する前にリビングへと直行した。 テーブルの上のケーキには一瞥もくれなかった。まるで道端の石ころでも見るかのように。 「あなたの三十歳の誕生日なのよ」 絢子はもう一度、か細い声で繰り返した。 胃が氷のように冷たくなっていくのを感じる。ここ数日、まともに食事も喉を通らない。この日のために、すべての神経をすり減らして準備してきたのだ。 この冷え切った関係を、どうにかしたかった。 「邪魔だ」 暁は低い声で言った。 その声には、長年積み重なった苛立ちと、契約という名の鎖で繋がれた女への、深い軽蔑が滲んでいた。ただ、目の前の障害物を排除したいという、それだけの響き。 彼は絢子の横をすり抜け、重厚なガラスの扉を開けると、スコッチのボトルを手に取った。 「お願いだから」 絢子は彼の腕に縋りついた。指先が氷のように冷たい。 「一口、食べるだけでいいの、その後は、好きにしてくれて構わないから」 「……西園寺」 暁は初めて、絢子の顔を正面から見た。 その瞳には、軽蔑と苛立ちが混じり合っている。 「契約内容を忘れたのか?俺のプライベートに踏み込むな、お前はただの、世間に対するカモフラージュだ」 その言葉が、心臓を鷲掴みにする。 息が詰まる。わかっていたことだ。三年前、記憶を失い、下町の安アパートで暮らしていた自分を拾い上げたこの男との関係は、ただの契約に過ぎない。 それでも、この三年間、妻として尽くしてきた。いつか、彼の氷のような心が溶ける日が来るのではないかと、愚かな夢を見ていた。 絢子はなおも彼の袖を掴んだまま、声を絞り出した。 「お願い……せめて、今日だけは……」 「離せ!」 暁は忌々しげに腕を振り払った。その動きは、彼女を視界から排除しようとする、乱暴なものだった。 その力は、絢子の想像を遥かに超えていた。 彼女の体はバランスを失い、ぐらりと傾く。 そして、スローモーションのように、視界の端に大理石でできた靴を履くためのスツールが映った。 ゴツッ、と鈍い音が頭に響いた。 側頭部に、焼けるような激痛が走る。 何かが生温かい液体が、こめかみから頬を伝っていくのを感じた。 視界が、急速に赤く染まっていく。 「……っ!」 声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。 激しい痛みが、まるで雷のように脳を貫いた。 その瞬間。 閉ざされていた記憶のダムが、轟音と共に決壊した。 忘れていた光景が、洪水のように脳内になだれ込んでくる。 陽光が降り注ぐ、広大な日本庭園。西園寺本邸の縁側。 両親の葬儀で、降りしきる雨の中に立つ、無数の黒い傘。 薄暗い部屋で、モニターに映し出される緑色のコードの滝。指が鍵盤の上を飛ぶように踊る感覚。 そうだ。 私は、西園寺絢子。 西園寺財閥の、正統な後継者。 そして―― 暗号化された深層Webで、誰もその正体を知らない伝説のハッカー、「M.Y.」。 私は、下町の孤児などではない。 玄関の床に倒れ込んだまま、絢子の震えが止まった。 血で霞む視界の中で、玄関のドアに手をかけた暁の背中が見える。 彼は一瞬だけこちらを振り返り、床に広がる血溜まりを見て、僅かに眉を顰めた。 その表情には、驚きよりも、また始まったのかといううんざりとした感情が色濃く浮かんでいた だが、彼は救急車を呼ぶという選択肢を捨てた。 どうせ、気を引くための狂言だろう。そう言いたげな冷たい視線が、絢子に突き刺さる。 「今日、このドアから出て行ったら」 絢子は、壁に手をつきながら、かろうじて身を起こした。偽りの妻を演じる、最後の力を振り絞って。 「私たちの結婚は、終わりよ」 その声は、自分でも驚くほど、静かで、冷たかった。 暁は、鼻で笑った。 「好きにしろ、だが、鷹司の庇護を失ったお前が、明日からどうやって生きていくのか、見ものだな」 その言葉を最後に、重い玄関のドアが、無慈悲に閉められた。 バタン、という音が、静まり返った部屋に響き渡る。 その衝撃で、ダイニングテーブルの上の蝋燭の火が、最後のひとつまで、ふっと消えた。 絢子は、その場に数秒間座り込んでいた。 額の裂けるような痛みと、心臓を締め付けるような絶望感。 だが、それもすぐに、絶対的な氷の冷静さに取って代わられた。 彼女はゆっくりと立ち上がると、ふらつく足で洗面所に向かった。 鏡に映った自分の姿を見て、思わず嘲りの笑みを浮かべた。 青白い顔、血に濡れた前髪、怯えた子犬のような瞳。 なんて、惨めな姿。 これが、西園寺家の娘の顔か? 彼女は蛇口を捻り、冷たい水で顔の血を洗い流す。 記憶の奔流は、まだ続いている。西園寺グループの複雑な株主構成、海外に隠された秘密口座のパスワード、そして、自分に忠誠を誓う、闇に潜む部下たちの顔。 そうだ。私は、何も失ってなどいない。 むしろ、全てを取り戻したのだ。 絢子はタオルで乱暴に顔を拭くと、洗面台に並べられた、下町の主婦を演じるために揃えた安物の化粧品を、すべてゴミ箱に叩き込んだ。 あの臆病で、惨めな西園寺絢子は、今、この瞬間に、死んだ。 書斎に向かう。 埃をかぶったまま放置されていた、予備のノートパソコンを開く。 電源を入れると、ごく普通のOSが起動する。だが、絢子の指が特定のキーを組み合わせで叩いた瞬間、画面は真っ黒になり、緑色の文字が走り始めた。 暗号化された、深層Webへの入り口。 彼女の指は、まるでそれ自身の意志を持っているかのように、鍵盤の上を滑る。 やがて、画面の中央に、一つのマークが浮かび上がった。 翼を持つ蛇が、己の尾を喰らうウロボロスの紋章。 「M.Y.」 彼女は一行だけ、メッセージを打ち込んだ。 「座標を送る、集結せよ」 エンターキーを押す。 その乾いたクリック音が、復讐の始まりを告げるゴングのように、静かな部屋に響き渡った。
章一覧
全280章
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