メインコンテンツへスキップ

翌朝、絢子はリビングのソファに座っていた。

窓から差し込む朝日が、彼女の着ている黒のセットアップスーツを静かに照らしている。完璧に計算されたシルエットは、まるで彼女のためにあつらえられたかのようだ。

テーブルの上には、一枚の書類が置かれている。

区役所の紋章が印刷された、離婚届。 昨夜、簡単な手当てを済ませた後、彼女は一睡もせずにこれを準備した。 過去三年間、この部屋で過ごした卑屈な時間を思い返し、絢子の唇に自嘲の笑みが浮かんだ。なんと無駄な時間だったことか。 カチャリ、と玄関のドアが開く音がした。 鷹司暁が、疲れ切った顔で入ってくる。その高価なコートからは、微かに外の冷気が漂っていた。昨夜は急な呼び出しで会社に詰めていたのだろう。 彼はソファに座る絢子を一瞥すると、深く眉を寄せた。 「まだいたのか、昨夜の狂言は懲りたかと思ったが」 彼は、絢子がいつものようにスリッパを揃え、お茶を淹れるものと信じて疑っていない。 だが、絢子は動かなかった。 彼女はただ、テーブルの上の離婚届を手に取ると、滑るような動作で暁の前に差し出した。 「サインして」 その声には、何の感情も籠っていなかった。 暁は、書類のタイトルに目を落とし、次の瞬間、馬鹿にしたように鼻で笑った。 「離婚届?西園寺、そんな子供騙しの駆け引きが、俺に通用するとでも思っているのか」 また金でもせびるつもりか、とでも言いたげに、彼は書類をテーブルに投げ返す。 「いい加減にしろ、そんな手を使わなくても、生活費はくれてやる、だが、これ以上俺を苛立たせるなら、鷹司家から一円も受け取れないようにしてやることもできるんだぞ」 それは、絶対的な強者の恫喝だった。 冷たい目で絢子を射抜きながら、暁はさらに言葉を続けた。彼は一歩踏み込み、見下ろすような姿勢で続ける。 「よく考えろ、お前に何ができる、戸籍も学歴も、まともな保証人すら持たない人間が、この家の外で食っていけると本気で思っているのか」 その声には、絢子が何も持たない弱者だという、揺るぎない確信が込められていた。彼は一呼吸置き、さらに言葉を重ねる。 「俺の機嫌を損ねれば、都内で住める場所すらなくなる、それを理解してから、その紙切れを出せ」 以前の絢子なら、この言葉に震え上がり、涙を浮かべて謝罪しただろう。 今の絢子も、その言葉が胸に突き刺さるのを感じた。三年前、すべてを失い、この男だけが唯一のよりどころだった頃の自分が、一瞬、心の奥で縮み上がる。 だが、違う。もうあの頃の自分ではない。 彼女は、背筋をまっすぐに伸ばした。心の奥底から、自分が何者であるかという、静かで強固な確信が湧き上がってくる。 「ペンは、そこにあるわ」 彼女は顎で、テーブルの端に置かれた万年筆を指し示した。その声には、微かな震えすらなかった。 その予期せぬ落ち着き払った態度に、暁は一瞬、言葉を失った。 彼は苛立ちを隠さずに離婚届を手に取り、乱暴にページをめくった。財産分与の欄を見て、この女の強欲さを嘲笑ってやろうと思った。 しかし、そこに書かれていた内容に、彼の動きが止まる。 「甲(鷹司暁)は乙(西園寺絢子)に対し、財産分与として、以下の不動産を譲渡する。所在地:世田谷区……」 それだけだった。 鷹司家の莫大な資産、株、預金、その全てを放棄する、と書かれていた。 彼女が要求したのは、世田谷に放置されたままになっている、一軒の古い洋館だけ。資産価値としては、ほとんどゼロに等しい、忘れ去られた物件だ。 暁は、顔を殴られたような衝撃を受けた。 それは、屈辱だった。 自分が築き上げてきた、日本経済を動かすほどの財産が、この女にとっては、ガラクタ同然の古い家一軒にも満たないと言われたようなものだった。 彼の存在意義そのものを否定されたような、耐え難い侮辱だった。 「……どういうつもりだ」 暁は低い声で唸り、ソファに身を乗り出した。絢子の顔を覗き込み、その瞳の奥にあるはずの動揺を探ろうとする。 「何の芝居だ、言え」 至近距離からの圧迫。だが、絢子の瞳は微動だにしなかった。 「別に、ただ、この三年間がつまらなくなっただけ、これ以上、無駄な時間を過ごしたくないの」 彼女は、彼の目を真っ直ぐに見返した。 その瞳の奥に宿る、鋭い光。それは暁が今まで一度も見たことのない、まるで研ぎ澄まされた刃物のような、冷たい輝きだった。 彼は無意識に、絢子の額に貼られたガーゼに目をやった。昨夜の傷だ。素人がやったとは思えないほど、手際の良い処置が施されている。 一体、何かがおかしい。 目の前の女は、本当に自分が知っている西園寺絢子なのか? 絢子は、腕に嵌められた年代物の腕時計に目を落とした。それは彼女が失くしたと思っていた、母親の形見だった。 「決断はお早めに、あなたにも、大切な方がいるんでしょう」 その静かな一言が、暁の最後の理性を断ち切った。 暁の脳裏に、一瞬、ある女性の顔がよぎったが、彼はすぐにそれを振り払った。 「……後悔するなよ」 彼はテーブルの上の万年筆をひったくると、離婚届の署名欄に、紙が破れるほどの力で自分の名前を書き殴った。 そして、その紙を絢子の顔に叩きつけるように投げた。 「鷹司家の敷居は、二度と跨がせるな、路頭で野垂れ死にしようが、俺の知ったことではない」 絢子は、ひらひらと舞い落ちる書類を、空中で静かに掴んだ。 署名と印鑑が押されていることを確認すると、彼女の唇に、満足そうな笑みが浮かんだ。 「ええ、ご心配なく」 彼女は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった、小さなスーツケースを引いて玄関に向かった。 この家に来た時と同じ、たった一つの荷物。鷹司家から与えられたブランド品や宝飾品には、何一つ触れていなかった。 玄関のドアに手をかけた時、彼女は一度だけ足を止めた。 振り返らずに、ただ一言だけ、呟いた。 「せいぜい、お幸せに」 ドアが閉まる。 廊下で待機していた暁の秘書、加藤誠は、中から出てきた絢子の姿を見て、息を呑んだ。 その圧倒的な存在感に、彼は思わず、深々と頭を下げていた。 エレベーターに乗り込み、閉じるボタンを押す。 金属の扉が、暁のいる世界を完全に遮断した。 絢子はスーツケースからスマートフォンを取り出し、暗号化された番号に電話をかけた。 ワンコールで相手が出る。 「……行動を開始して」 静かな声で、彼女はそう告げた。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全280章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

新着