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第3章 深夜の追跡剥がされた仮面

ベランダのガラス戸が勢いよく開け放たれ、吹き込んだ夜風が白檀の残り香と煙草の煙を散らした。

通話口からは、女のか細い泣き声と、幼い子どもの怯えたようなしゃくり泣きが漏れ聞こえてくる。

光太郎は手すりに片手をかけ、眉間に深い皺を寄せていた。

「落ち着くんだ。すぐに聖マリアンナ先端医療センターの専属救急車を手配する。蓮を連れてマンションで待っていなさい」

通話を切って振り返った彼の顔から、涼菜に対する冷酷さはいっさい消え失せ、残っていたのは純粋な焦燥だけだった。

光太郎は廊下を足早に通り抜け、壁際に立つ涼菜の存在など目に入っていないかのように、シューズクロークからポルシェのキーをひったくった。

「会社の緊急事態だ。今夜は戻らない」

無機質な言葉を吐き捨てると、彼は重い玄関ドアを叩きつけるようにして出て行った。

激しい破裂音が、廊下に反響する。

薄暗い玄関に取り残された涼菜は、彫像のように立ち尽くしていた。

聖マリアンナ先端医療センター――そこは彼女が客員睡眠治療医として籍を置く、都立中央総合先端医療システムの傘下にある最高峰の提携私立病院だった。

涼菜はすぐさま寝室へ戻ると、ドレスを脱ぎ捨て、端正なベージュのトレンチコートに着替えた。黒髪を手早く低い位置で一つに束ねる。

医師専用のICアクセスカードと車のキーをつかみ、地下駐車場へと降りた彼女は、目立たない黒のレクサスに乗り込んだ。

前方を走るポルシェの赤いテールランプが、雨上がりの首都高速道路を猛烈な速度で切り裂いていく。涼菜は二百メートルほどの距離を保ち、追跡を悟られないよう慎重に後を追った。

午前零時四十分、二台の車は時間差で聖マリアンナ病院の特別VIP専用エントランスへと滑り込んだ。

ヘッドライトを消した車内から見つめる先で、光太郎が、後から滑り込んできたトヨタ・アルファードへ向かって大股で駆け寄る姿が見えた。

スライドドアが開き、薄手の白いカーディガンを羽織った庄司亜矢子が姿を現した。風が吹けば折れてしまいそうな儚さを、全身から漂わせている。

亜矢子の腕の中には、虚ろな目をした四歳ほどの男の子が抱かれていた。

光太郎の姿を認めた瞬間、亜矢子は膝の力を抜き、崩れ落ちるように彼の逞しい胸元へと身を投げ出した。

光太郎は何の躊躇もなくその華奢な体を抱き留め、胸元へ強く引き寄せた。大きな手が、愛おしそうに彼女の後頭部を撫でる。

「もう大丈夫だ。俺がいる」

その光景は、音もなく涼菜の網膜を焼き尽くした。

三年間の婚姻生活の中で、光太郎がこれほど無防備な慈愛を込めて自分を抱きしめたことなど、ただの一度もなかった。

駆けつけた医療スタッフが車椅子を押し、光太郎は亜矢子に肩を貸すようにして、最上階の特別室へと消えていった。

涼菜はコートの襟を立て、医師専用のセキュリティゲートにカードをかざした。一般人が立ち入れない専用エレベーターで、十二階のVIP病棟へと上がる。

吸音カーペットが敷き詰められた廊下の奥、VIP〇一号室の前で、光太郎が当直医を低く威圧的な声で叱責していた。

「最高品質の鎮静薬を使え。後遺症の責任はすべて飯塚グループが持つ。彼女にいっさいの恐怖を感じさせるな」

病室のドアは、わずかに開いていた。

ベッドに横たわる亜矢子は、先ほどまでの蒼白な表情を消し去り、光太郎から贈られたばかりのブルーダイヤのブレスレットを満足げに眺めていた。

ソファの隅で縮こまる息子の蓮に対し、亜矢子は光太郎の死角を突いて、その細い背中を容赦なく爪でつねり上げた。声を上げて泣くなと、目で脅しつけながら。

その陰湿で冷酷な虐待の瞬間を、ドアの隙間から、涼菜の冷徹な視線が正確に捉えていた。

光太郎が病室へ戻ると、亜矢子は瞬時に怯えた小鹿のように涙を浮かべ、彼の腕にすがりついた。

「光太郎さん、私……邪魔ばかりでごめんなさい。もし涼菜さんに知られたら、もっと恨まれてしまうわ……」

光太郎は彼女の涙を親指で拭い、冷たく言い放った。

「あいつの機嫌など気にする必要はない。この結婚は単なる利害の一致だ。俺にとって、お前がかつて払ってくれた犠牲以上のものは存在しない」

その一言一句が、涼菜の胸に残っていた最後の未練を粉々に打ち砕いた。

涼菜は音もなく三歩後退し、廊下の突き当たりにある多目的化粧室へと滑り込んだ。

内側から鍵をかけ、冷たいタイルの壁に背中を預けて座り込む。両手で強く口元を覆った。

声にならない熱いものが溢れ出し、頬を伝って零れ落ちる。

三分間。

蛇口を限界までひねり、激しい水流で顔を洗った。鏡の中に映る彼女の瞳からは、すべての涙の痕跡が消え去り、絶対零度の冷気が宿っていた。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章 三年の冷宴残された空虚
  2. 第2章第2章 深夜の帰館施しの温もり
  3. 第3章第3章 深夜の追跡剥がされた仮面

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