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第2章 深夜の帰館施しの温もり

玄関の大理石の床に長い影が伸び、飯塚光太郎は背後で重厚な玄関扉を乱暴に閉めた。

手にしたスーツの上着を、シューズボックスの上へ無造作に放り出す。

長身で引き締まった体躯は周囲を圧倒するほどの威圧感を放ち、整えられていた黒髪はわずかに乱れ、緩められたネクタイの間から白いシャツの襟元が覗いていた。

玄関ホールに、濃厚な残り香が漂う。それは光太郎が愛用するウッド系のトワレではなく、甘く重苦しい、庄司亜矢子だけが好む執拗な白檀の香りだった。

廊下の角に腕を組んで佇む涼菜に気づくと、光太郎の黒曜石のような瞳に一瞬だけ微かな驚きがよぎった。だが、それはすぐにいつもの冷淡な色へと塗り潰される。

「まだ起きていたのか」

シャツのカフスボタンを外しながら、光太郎は長い足でリビングへと歩みを進めた。低くかすかに掠れた声には、生まれついての支配者特有の傲慢さが滲んでいる。

涼菜は出迎えることも、鞄を受け取ることもせず、その場から一歩も動かなかった。

「お返事を待っていましたので」

光太郎は眉をひそめた。涼菜の右手の薬指には、外したばかりの結婚指輪の跡が、ダウンライトの光を浴びて白く浮き上がっている。

「買収案件に急な不備が出てな。銀座で少し酒を口にした。携帯を確認する余裕がなかった」

裏切りをビジネスの付き合いと言い換え、滑らかに嘘を紡ぎ出す。その表情には微塵の動揺もなかった。

涼菜はその彫刻のように端正な顔を見つめ、唇の端にかすかな冷笑を浮かべた。

「そうですか。飯塚社長は本当にお忙しいのですね」

棘のある物言いに気づいたのか、光太郎は歩みを止め、彼女のわずか半歩手前に立ちはだかった。成熟した男特有の熱を帯びた体温が、アルコールの気配とともに押し寄せてくる。

「今夜はやけに突っかかるな」

光太郎は長く節くれだった手を伸ばし、親指の腹で涼菜の白くなめらかな首筋を強引に撫で上げた。鎖骨のラインに沿って、ゆっくりと指先を滑らせる。

「……何か不満でもあるのか」

身をかがめた光太郎が、熱い吐息を彼女の耳朶と首筋に吹きかける。それは妻への情愛というより、気まぐれに与える施しのような親密さだった。

手のひらがシルクのドレスを滑り降り、細い腰を引き寄せる。そのまま唇を奪おうと、強引に顔を寄せてきた。

鼻腔を突く強烈な白檀の香りに、涼菜の胃が激しく痙攣した。生理的な嫌悪感が理性を吹き飛ばす。

咄嗟に両手を胸の前に突き出し、光太郎の硬い胸板を渾身の力で押し返した。

「触らないで!」

不意を突かれた光太郎は半歩後退し、革靴の踵がフローリングを鋭く擦った。

瞳の奥が一瞬にして暗雲のように淀み、危険な捕食者の気配が部屋を満たす。

「塩見涼菜、自分が誰に向かって我儘を言っているのか分かっているのか。俺の忍耐にも限界がある」

涼菜は下唇の内側を強く噛み、背筋を伸ばしてその威圧的な視線を受け止めた。

「気分が優れません。今夜は別の部屋で休みます」

光太郎は冷笑を漏らし、青白い顔をした妻を見下ろした。女が気を引くための拙劣な駆け引きだと、高を括っているのがありありと伝わってくる。

「結婚記念日の件か」

光太郎はいら立ちを隠そうともせず煙草を取り出し、ライターの火をつけた。紫煙が揺れる。

「銀座のジュエラーに、ピンクダイヤの新作が入ったらしい。明日、秘書に案内させる。好きなセットを選べばいい」

彼はいつものように巨額の金と宝石で、すべてを片付けようとしていた。檻の中で飼い慣らした小鳥をあやすように。

「結構です」

涼菜の声には何の温度も宿っていなかった。

「ピンクは嫌いですし、施しを受ける謂れもありません」

光太郎は立ち上る煙を吐き出し、わずかに指先を震わせながら灰を落とした。

「身の程を知れ。塩見家が来月返済しなければならない五億円のつなぎ融資は、まだ飯塚フィナンシャルの審査部で止まったままだぞ」

剥き出しの脅迫が、冷酷な刃となって突き刺さる。三年の夫婦の情など、初めからこの男の計算の中にしか存在しなかったのだ。

涼菜は拳を固く握りしめ、指先を白く染めながらも、氷のように冷たい微笑を返した。

「それなら飯塚社長の職権で、公明正大にご処理ください」

思い通りの反応を示さない妻の態度に、光太郎が苛立ちを募らせる。その細い手首を掴もうと手を伸ばした瞬間、スラックスのポケットで個人用のスマートフォンが甲高く鳴り響いた。

業務用の落ち着いた着信音ではない。オルゴールの専用メロディが、張り詰めた廊下にけたたましく響き渡る。

光太郎の表情が一変した。画面に浮かぶ「亜矢子」の文字を目にした途端、先ほどまでの冷徹さは消え去り、隠しようのない焦燥が瞳を覆う。

彼は妻に一瞥もくれず、通話ボタンを押しながらベランダへと大股で歩き出した。

「亜矢子? どうした、また胸が痛むのか……?!」

その甘く切羽詰まった声を背中に浴びながら、涼菜は暗闇の中で完全に心を閉ざした。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章 三年の冷宴残された空虚
  2. 第2章第2章 深夜の帰館施しの温もり
  3. 第3章第3章 深夜の追跡剥がされた仮面

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