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第3章 危険な偽装取引
回転扉を抜けた並木道で、桜花は再び徹の前に回り込んだ。 「……そこを退け」 初夏の陽ざしが並木の葉を透かして、二人の足元に斑の影を落としている。 徹は立ったまま見下ろした。爪が掌に食い込むほど、桜花は拳を握りしめた。 「お母様とのお電話、聞こえました」 細められた目に、危険な光が宿る。 「俺の通話を盗み聞きしたか」 「お見合いを断る口実が必要なんですよね?! 私、偽物の彼女になります! だから、研修の評価を取り消さないでください!」 舌がもつれた。それでも桜花は、途中でやめなかった。 患者らしき通行人が怪訝そうに視線を向けた、その瞬間。手首を掴まれ、桜花は並木の大木の陰へ引きずり込まれた。 背中にごつごつした樹皮。徹は桜花の耳元に片手をつき、逃げ場を塞ぐ。 「貴様ごときが、俺の偽装相手を務められるとでも思っているのか」 男の匂いと冷たい威圧が鼻腔を突く。 「み、身元は潔白です! 帝都大学医学部を首席で卒業しましたし、絶対にご迷惑はおかけしません!」 必死に顔を上げる。すっぴんの白い肌。緊張で、小さな鼻の頭が微かに赤い。 風が吹き抜けて黒髪が揺れ、その毛先が徹の唇をかすめた。石鹸の匂いが、かすかに残る。 徹は喉仏をわずかに上下させた。 「愚かだ。岩城家の敷居がどれほど高いか、何も知らんようだな」 頭の中で、計算が走る。 母の狂言じみた結婚催促は、日ごとに酷くなっている。中途半端な令嬢を雇えば、老獪な母の目は誤魔化せない。 だがこの女は、臆病で口ごもるくせに、土壇場で命知らずの頑固さを見せる。そして何よりその瞳には、名利を求める濁りがない。 「すべてのお見合いをお断りする盾になります! 処分を取り下げてくださるだけでいいんです!」 桜花は指を二本立てて誓ってみせた。 徹は不意に手を伸ばし、親指の腹で桜花の目尻の涙を乱暴に拭った。 唐突な接触に、全身が硬直する。耳の付け根が一瞬で熱く染まった。 「俺の女を演じるなら、それほど怯えていては話にならん」 掠れた声が耳朶を打つ。 桜花は唾を飲み込み、胸を張った。 「お、怯えてなんかいません! 私、勇敢です!」 「どもりながら言っても、説得力はない」 徹は嘲笑を浮かべ、内ポケットから漆黒の名刺を抜いた。肩書きの一切ない、個人の直通番号だけが刻まれている。 「この番号を登録しておけ。貴様の処分は、一時的に保留にしてやる」 名刺は桜花の白衣の胸ポケットへ、直接滑り込んだ。薄い布越しの冷たい感触に、安堵で膝の力が抜けそうになる。 「だが」 再び身を屈め、徹は桜花の耳元に唇を寄せた。 「一度でもボロを出せば、日本の医学界から永遠に貴様の名を消し去る」 熱い吐息が耳たぶをかすめた。桜花は縮こまりながら、激しく首を縦に振った。 「なら、持ち場へ戻れ」 胸ポケットを上から押さえ、桜花は二歩駆け出した。だが、ふと足が止まる。 振り返ると、徹の右手はまだ右腰を押さえたままだ。さっきより深く。指先が白い。 「あの……先生」 「まだ何かあるのか」 「その押さえ方、典型的な尿管結石です。下部狭窄部に嵌っています」 徹の眉が跳ね上がった。 「さっきは包茎だと言っていたはずだが」 桜花の顔が首まで真っ赤になった。両手で顔を覆い、通用口へ逃げるように走り出す。 「今すぐ救急外来でCTを撮ってください!」 木陰に残された徹は、通用口へ消えていった桜花の背中をもう一度だけ見た。 「嵌頓結石、か」 唇が、わずかに動いた。 だが次の瞬間、波が来た。視界の端が白く飛び、徹は片膝をついた。額を冷や汗が伝う。 痛み方は確かに、あの女の言った通りだった。 ゆっくりと立ち上がりながら、徹は救急外来の明かりへ向かって歩き出した。右腰を、もう一度強く押さえながら。
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