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第1章 痛恨の誤認診察

「次の患者さん、カーテンの裏でズボンと下着を脱いでください。診察台に仰向けになってください」 ボールペンの尻で机をコツコツ突きながら、三笠桜花はカルテから目を上げなかった。三十八時間連続勤務の真っ最中で、視界が霞んでいる。 返事がなかった。 「……貴様、今なんと言った?」 掠れた低い声。それでやっと、桜花は充血した瞼を擦りながら顔を上げた。 診察デスクの前に、黒のロングコートの男が立っている。背が高く、肩が厚い。右手で腰のあたりを強く押さえ、一歩動くたびに肩が強張る。 痛みを堪えている。医者の目には、そこしか映らなかった。 「成人の包茎手術に伴う術前検査です。男性の患者さんは見慣れていますから、恥ずかしがる必要はありません。早くしてください」 男の眉が跳ね上がった。 「ヤブ医者が。足りない頭で、もう一度カルテを見直せ」 「後ろの患者さんも待っています」 桜花は苛立ちを飲み込み、使い捨ての手袋を両手にはめた。 机の端には、特別療養病棟の請求書が重石のように載っている。一日三万円。植物状態の養母の、今月分だ。桜花の月給では、もう三か月足りていない。 この外来を片付けてしまわなければ。 「話にならん」 男は踵を返した。 「あ、待ってください! 逃げても治療にはなりません!」 デスクを回り込んで、桜花はコートの裾を背後から掴んだ。その拍子に男の体が大きく傾いた。堪えきれずに崩れた男の上へ、桜花も一緒に倒れ込んだ。 「ちょっと観念してください!」 レールを軋ませてカーテンを閉め、薄暗いカーテンの中で革ベルトのバックルに手をかける。 次の瞬間、手首を万力のような掌に握られた。 「貴様……俺の体に気安く触れるな!」 指の骨が軋む。掌の硬いタコが、皮膚越しに熱を伝えてきた。 「な、何を……? わ、私は医師です! 診察は正当な医療行為です!」 「正当だと? 衣服を剥ぎ取ることが、貴様の言う医療か」 両手首を片手でまとめられ、頭上のシーツへ押しつけられた。男の体臭と、かすかに火薬の匂い。狭い診察台の上で、乱れた呼吸が交差する。 暴れる桜花の視線が、枕元の紙に留まった。 太い文字で、こうある。 『急患・急性右腰痛』 頭の中が真っ白になった。 床に落ちたカルテの下から、別のファイルが出てくる。挟まれていたのは、防衛重工研究所の特約診察カード。 看護師が、カルテを渡し間違えた。 同時に、男の視線もその紙を捉えた。眼底の怒りが、ゆっくりと別の色に変わる。 「……見えたか、舌足らず」 拘束が解けた。男は起き上がり、皺になったコートの襟を整えた。シーツの上で小さく縮こまる桜花を見下ろし、腰のホルダーから暗号端末を引き抜く。 「院長をここへ呼べ。永和総合病院の認可を取り消す」 「だ、駄目です……!」 膝を鉄枠に強打しながら飛び起きて、桜花は端末の画面へ両手でしがみついた。 「わ、わざとじゃありません……! カルテは看護師が間違えて……! 処分だけは、どうかご容赦を……!」 掌の湿った温もりが男の手の甲に触れ、指先が一瞬だけ止まる。が、次の息で、冷たく振り払われた。 「医療現場に、言い訳は通用しない」 カーテンが荒く開けられる音。黒いコートの裾が消えたあと、床に落ちた手袋を見つめながら、桜花はその場へ崩れ落ちた。 資格を失えば、母の人工呼吸器が止まる。手袋を握る指が、止まらずに震えていた。 外の廊下に出た男は、痛む右腰を押さえ、待機していた副官に短く命じた。 「十分以内に、あの女の素性をすべて洗え」

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章一覧

全40章

  1. 第1章第1章 痛恨の誤認診察
  2. 第2章第2章 奪われた身分証
  3. 第3章第3章 危険な偽装取引

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