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第2章 奪われた身分証
消毒液の匂いが染みついた中央廊下を、その男――岩城徹は足早に歩いていた。 行き交う看護師や医師が、その気配に怯えたように道を譲る。振り返りもしない。 「お、お待ちください……!」 追いついた桜花は、息を切らせながら男の隣に並んだ。白衣の裾は乱れ、青ざめた額に汗が浮いている。 エレベーターのランプが一階から上がってくる。閉まりかけた扉の隙間へ、桜花は滑り込んだ。センサーが反応して、扉が開く。 狭い箱に、二人きり。重い沈黙が落ちた。 「患者を追いかけてくるのが、貴様の医徳か」 壁に背中を預け、肩で息をしながら、桜花は深々と頭を下げた。 「先ほどは私の完全な確認不足でした! 心よりお詫び申し上げます!」 エレベーターが下降を始める。浮遊感と一緒に、男の放つ圧が桜花を押し潰す。 徹は腕時計に視線を落とし、忌々しそうに眉を寄せた。 「謝罪で済むなら、軍法会議も警察も要らない」 「処分を受けるわけにはいかないんです……! 私には、この研修修了証が必要なんです!」 顔を上げた桜花の黒い瞳に、切迫した涙の光が揺れている。 徹は鼻で笑い、半歩踏み込んだ。長身の影が桜花をすっぽりと覆った。 「貴様の事情など知るか。過ちを犯した者が代価を払う。それだけだ」 逃げ場はもう、背後の冷たいステンレスしかない。 その時、徹の指が伸びて、桜花の胸元のネームホルダーをつまみ上げた。指先が鎖骨の上をかすめ、桜花は思わず息を止めた。 「三笠桜花……帝都大学医学部、外科研修医」 低く読み上げられ、端末の無機質なシャッター音が鳴った。 「やめてください! 返してください!」 徹は長い腕を掲げただけで、容易くそれを躱した。 「私の未来を奪わないで……!」 「未来だと? 診察台の上で患者を辱めた時点で、その資格は消えている」 チン、と澄んだ音がして、扉が開いた。 徹は大股でロビーへ出る。桜花は涙を拭う間もなく、その袖口を両手で掴んだ。 「お願いです……! チャンスをください! 手当を全額カットされても構いませんから!」 広いロビーに、甲高い声が響いた。副主任クラスの医師が数人、徹の姿を認めて頭を下げたまま凍りついている。好奇と軽蔑の視線が、一斉に桜花へ突き刺さった。 膝をつきそうになるほど取り乱す女を、徹は冷ややかに見下ろした。 小動物のように震える赤い目尻。血が滲むほど噛み締められた唇。無力なその姿が、徹の胸の奥に、奇妙な苛立ちを掻き立てる。 そこへ、ポケットの端末が鋭く震えた。 画面に出たのは、最高権限の内線番号。徹は通話ボタンを押して端末を耳に当てた。 『徹! 今日の長谷川家とのお見合い、またすっぽかしたわね! 今すぐ本邸に戻りなさい!』 徹が誤ってスピーカーに触れたらしく、母の甲高い声が端末から響いた。 徹は眉間を指で強く押さえた。 「母上、こちらは公務中だ。見合いの話は断ると言ったはずだ」 『断るですって?! あなた、今年で二十九歳よ! まともな交際相手を連れてこないなら、私は病院の屋上から飛び降りてやるわ!』 ガチャリ、と一方的に切れた。 すぐ傍らの桜花の耳に、そのやり取りは一言一句届いていた。 涙を睫毛に溜めたまま、桜花が見上げる。その瞳の奥で、切羽詰まった光が弾けた。 徹は冷酷な視線を落とした。 「これ以上つきまとうなら、今すぐ警備を呼んで叩き出す」 桜花は深く息を吸った。 そして、回転扉の前へ回り込み、両手を広げて立ち塞がった。
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