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チャプター 2 地獄から戻りし者
高級住宅街の一角に佇む低層マンション。この五年間、千尋が「我が家」と信じて毎日磨き上げてきた部屋の玄関ドアの前に、彼女は立っていた。真鍮の鍵を鍵穴に差し込み、音を立てずに回した。大理石のたたきに足を踏み入れた瞬間、リビングの奥から微かに声が漏れ聞こえてきた。 「和宏、本当に大丈夫なんでしょうね? 愛莉さんと悠斗をいつまで待たせる気なの。お祖父様も、そろそろ孫の顔を公にしたいと仰っているわよ」 義母の声だった。低く、苛立ちを含んだその響き。千尋は靴を脱ぐ手を止め、玄関ホールの影に身を潜めた。和宏の、どこかうんざりしたような返答が続いた。 「分かっていますよ、母さん。祖父との約束は『五年間の結婚生活を維持すること』だった。今日でその任期は満了だ。千尋には適当な理由をつけて離婚を切り出す。あいつは身寄りのない孤児で、俺に依存しきっているんだ。世間並みの慰謝料を握らせてやれば、泣き寝入りして大人しく出て行きますよ」 「当たり前よ。ろくな家柄でもない娘を五年間も伊藤家の若奥様として住まわせてやったんだから、感謝してもらいたいくらいだわ」 義母の冷笑がリビングに響き渡った。千尋は冷たい壁に背を預け、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。だが、和宏が次に口にした言葉は、千尋の心臓を完全に凍りつかせた。 「それにあいつが子供を作って、伊藤家の遺産に執着する心配もない。晴香先生に頼んで千尋に処方させていた『妊活用のサプリメント』……あれを毎日欠かさず飲んでいたからな。最初は断られたが、晴香先生の弱みを握って従わせた。」 「ふん、あの子が産婦人科医で助かったわ。脅されて仕方なくやっただけの女に、感謝など不要よ。 まさか自分が飲んでいるのが長期避妊薬だとは、夢にも思っていないでしょうよ」 喉の奥がカラカラに乾き、息が吸えなくなる。加藤晴香。千尋が学生時代から信じ抜き、唯一の親友だと思っていた女性。「なかなか子供ができない」と泣きついた時、親身になって「千尋の体質に合わせた特別なビタミン剤よ」と手渡してくれた、あの白い錠剤。夫だけでなく、親友にまで。自分は五年間、毒を盛られ続けていたのだ。 千尋は音を立てずに玄関のドアノブを回し、外へと滑り出た。カチャリと静かにラッチが掛かった。マンションのエレベーターを使わず、非常階段を駆け下りた。中庭の冷たいベンチに、崩れ落ちるように座り込んだ。震える指でスマートフォンを操作し、加藤晴香の個人番号をタップした。呼び出し音が三回鳴り、聞き慣れた明るい声が耳元に届いた。 『もしもし、千尋? どうしたの、こんな時間に。今日、記念日じゃない?』 何一つ罪の意識を感じていない、完璧な親友のトーン。千尋は胸に広がる鉛のような重みを押し殺し、極めて平坦な声を出した。 「晴香……ひとつだけ教えて」 『ん? 何?』 「あなたが私にずっと処方してくれていた、あの妊活ビタミン剤……あれ、本当は何の薬なの?」 通話口の向こうで、息を呑む気配がした。一秒、二秒、三秒。残酷なまでの沈黙。 『な、何言ってるのよ、千尋。ビタミン剤に決まってるじゃない。急にどうしたの? 変なネットの情報でも見たの?』 わずかに上ずったその声が、すべての真実を物語っていた。 「……そう。分かったわ」 『千尋、待って、ちょっと――』 千尋は画面をタップして通話を切り、その場で晴香の連絡先を着信拒否に設定した。裏切りを嘆く涙すら、今の千尋には残っていなかった。 ベンチに座り、千尋は天を仰いだ。初夏の青空が眩しすぎて、視界が白く霞む。 (孤児……そうね。あなたたちは、私が何も持たない無力な捨て駒だと思っていた) だが、千尋の記憶の檻の奥底には、別の風景が眠っていた。横浜の広大な日本庭園。重厚な門構え。自分を「千尋お嬢様」と呼んでいた使用人たちの声。そして、自分を誰よりも慈しんでくれた兄の面影。大島グループ。日本屈指のメガバンクや不動産を傘下に収める、横浜の巨大財閥。千尋はその正統なる長女だった。幼い頃の記憶の混濁と、ある事件をきっかけに家族と距離を置き、東京で自立して生きていこうとした結果が、この無残な結末だった。 (私が弱かったから。信じる相手を間違えたから、すべてを奪われた) 千尋は立ち上がった。膝の震えは完全に止まっていた。瞳には冷徹な炎が宿り、顔立ちにはかつての大島家の令嬢としての、犯しがたい気品が蘇っていた。彼女は再びマンションのエントランスへと向かい、エレベーターに乗り込んだ。 ドアを開け、わざと朗らかな足音を立てて中へ入った。 「ただいま戻りました」 リビングへ足を踏み入れると、和宏と義母はソファに座り、何事もなかったかのように紅茶を飲んでいた。和宏がわずかに眉を寄せ、慌てて立ち上がった。 「千尋、どこに行っていたんだ? 連絡もなしに」 「ごめんなさい、ちょっと近くまでお買い物に」 千尋の唇には、以前と変わらぬ、完璧に調教された良妻の笑みが浮かんでいた。その瞳の奥の氷を、二人は露ほども察知できなかった。 「和宏さん、お仕事大変だったでしょう? すぐにお風呂を沸かしますね」 「あ、ああ……頼むよ」 和宏は拍子抜けしたようにネクタイを緩めた。従順な千尋の態度に、疑念の余地など欠片も抱いていなかった。義母は鼻を鳴らし、立ち上がって自室へと去っていった。 バスルームに入った千尋は給湯器のスイッチを入れ、浴槽に勢いよく湯を張った。激しい水音が密閉された空間に反響した。千尋はポケットから使い古したスマートフォンを取り出した。電話帳の最深部に保存されていた、一度も発信したことのない番号。 「大島修吾」。 大島グループの次期当主であり、千尋の実の兄。通話ではなく、千尋は短いメッセージを打ち込んだ。 「お兄様、千尋です。助けてください」 送信ボタンを押すと、画面は一瞬で暗転した。千尋は洗面台の鏡を見つめた。鏡の中の女は、美しく微笑んでいた。だがその眼差しは、獲物の喉笛を見据える獣のように研ぎ澄まされていた。 「和宏さん、お湯が沸きましたよ」 バスルームから出た千尋の声は、どこまでも澄み渡っていた。
章一覧
全102章
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