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チャプター 3 王札との密約仮面の帰還
深夜零時を回り、マンション内は死んだような静けさに包まれていた。寝室で寝息を立てる和宏の背中を一瞥し、千尋は音もなくベランダへ出た。夜風が火照った頬を撫でた。眼下には、無数の光が蠢く東京の夜景が広がっていた。ポケットの中で、スマートフォンが震えた。発信元の表示は大島修吾。通話ボタンをスワイプし、耳に当てた。 『千尋か』 低く、有無を言わせぬ重厚な声。五年ぶりに聞く肉親の声だったが、兄の声音には何の隔たりも感じられなかった。 「お兄様」 『メッセージを見た。……伊藤の家か』 「ええ」 千尋は私情を挟まず、今日知った事実だけを淡々と伝えた。婚姻届が提出されていなかったこと。愛莉との関係、子供の存在。そして、親友を介して五年間も避妊薬を飲まされていたこと――。受話器の向こうで、すっと息を吸い込む音がした。修吾が激怒したときに見せる特有の癖だった。 『……あの虫けらどもが。大島家の人間とも知らず、よくもそこまで千尋を愚弄してくれたな』 「お兄様、怒らないで。私はもう泣いてなんかいないわ。ただ、私が捨てたはずのものを、全部取り戻したいの」 千尋はベランダの手すりを強く握りしめた。 「お願いがあるの。中山グループの中山湊さんに、連絡を取ってほしい」 修吾は一瞬、沈黙した。中山家――横浜において大島家と双璧をなし、政財界の頂点に君臨する名家。そして中山湊は、かつて家同士で千尋との婚約が取り沙汰されていた男だった。当時の千尋は、和宏への盲目的な愛ゆえにその話を激しく拒絶し、家を飛び出したのだ。 『湊か。……あいつは手強いぞ。お前が頭を下げたところで、利益のない話には乗らない男だ』 「構わない。私自身を売ってでも、あの男の力を借りたいの。伊藤家を一番高い場所から叩き落とすための翼が必要なのよ」 『分かった。十分後に番号を送る。……千尋、大島家はお前の味方だ。それだけは忘れるな』 通話が切れ、再び夜風が吹き抜けた。約束通り、十分後に修吾から一行のメッセージが届いた。そこには湊の直通番号が記されていた。千尋はためらうことなく発信ボタンを押した。コール音が三回鳴り、通話が繋がった。受話器の向こうから聞こえてきたのは、冷淡でありながら、驚くほど心地のよい低音のバリトンだった。 『大島千尋だな』 名乗る前に名を呼ばれ、千尋の背筋に微かな緊張が走った。 「夜分遅くに申し訳ありません、中山様」 『挨拶はいい。修吾から大枠は聞いた。……俺との婚約、受ける気になったのか?』 単刀直入な問いだった。千尋は呼吸を整え、覚悟を込めて言葉を紡いだ。 「はい。中山様との婚姻を受け入れます。ただし、条件があります」 『言ってみろ』 「私には片付けなければならない私事があります。それまで、私たちの関係は完全に極秘にしていただきたいのです。そして……私が伊藤家を完全に解体する、その時まで、中山様の力を私の最後の切り札として貸してください」 受話器の奥から、低く微かな笑い声が漏れた。嘲笑ではなく、興味深そうに観察するような響きだった。 『面白い。五年間、おとなしい羊のふりをして飼われていた令嬢が牙を剥くか』 「羊の皮は、もう脱ぎ捨てました」 『いいだろう。お前の復讐の片棒を担いでやる。だが大島千尋……俺をただの便利な道具だと思うなよ』 湊の声が、ふっと耳元に近づいたような錯覚を覚えた。 『契約成立だ。これからは湊と呼べ。……歓迎するよ、俺の可愛い婚約者』 一方的に通話が切れた。千尋はスマートフォンを胸に抱いた。心臓が激しく脈打っている。中山湊という男の底知れぬ威圧感。だが、その強大さこそが今の千尋にとって最高の劇薬であり、武器だった。 翌朝。千尋は何事もなかったかのように早く起き、完璧な朝食を整えた。ダイニングに現れた和宏は、昨夜の疲れも見せず、どこか傲慢な表情で席に着いた。 「おはよう、千尋。昨日はすまなかったな、記念日だったのに」 「いいえ、お仕事ですもの。和宏さんが頑張ってくださっているから、私はこうして不自由なく暮らせているんですもの」 千尋は優しく微笑み、炊き立てのご飯をよそって手渡した。和宏の顔に微かな後ろめたさが差した。 「千尋……お前は本当にできた妻だな」 「当たり前のことをしているだけです」 千尋が和宏の手の甲にそっと自分の手を重ねた、その時だった。エントランスのインターホンがけたたましく鳴り響いた。家政婦がドアを開けると、甲高い笑い声と共に、リビングへ数人の足音が近づいてきた。 「おはようございます、和宏さん!」 現れたのは、白のタイトワンピースを着こなした徳永愛莉だった。その腕には、大きな瞳をした男の子――悠斗が抱かれていた。そしてその後ろには、満面の笑みを浮かべた義母が付き従っていた。愛莉はテーブルの上で重なり合う千尋と和宏の手を見咎めると、一瞬だけ瞳の奥を険しく尖らせた。だが、すぐに無邪気で可憐な仮面を被り直した。 「千尋さん、急にお邪魔してごめんなさい。悠斗が『おばあちゃまと和宏おじちゃんに会いたい』って聞かなくて」 義母が千尋を押しのけるように割り込み、悠斗を抱き上げた。 「いいのよ、愛莉さん! ここはあなたたちの家も同然なんだから。さあ、悠斗、おばあちゃんとお部屋に行きましょうね」 和宏は気まずそうに千尋の手を離し、立ち上がった。 「愛莉、連絡もなしに来るなんて……」 「だって、会いたかったんだもの」 愛莉は上目遣いで和宏を見つめ、それから千尋へ向けて勝ち誇ったような視線を投げかけてきた。千尋はその場に立ち尽くしていた。しかし、昨日のような動揺は微塵もなかった。すっと背筋を伸ばし、完璧な女主人の笑みを浮かべて愛莉に歩み寄った。 「いらっしゃい、愛莉さん。遠路はるばる大変だったでしょう。さあ、どうぞ座って。朝食がまだなら、すぐにご用意するわ」 愛莉は、千尋のあまりに自然で温かな対応に出鼻をくじかれたように目を瞬かせた。用意していた嫌味の言葉が、喉元で立ち往生していた。千尋は愛莉の横をすれ違いざま、エプロンのポケットの中でスマートフォンを素早く操作した。 「第1ラウンド、開始。敵は全員揃いました」 送信相手は中山湊。数秒後、画面に一言だけ返信が表示された。 「存分に踊らせてやれ」 千尋の唇に、誰にも気づかれない冷酷な弧が刻まれた。
章一覧
全102章
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