/0/26415/coverbig.jpg)
チャプター 3 帰って政略結婚する
「だが、その後……」藤川蓮の声が、ふと低くなった。 微かな動揺を滲ませながら、彼は続けた。 「俺は、凪が浅井月とは違うことに気づいた。 彼女はもっと優しく、もっと俺に依存して、いや……兮月よりも俺を愛してくれた」
伊藤純一は冷笑を浮かべた。 「だから、お前は平然と彼女を騙したのか?」
「騙してなんかいない!」藤川蓮の声が不意に高ぶるも、すぐに押し殺すように低くなった。 「俺は本当に彼女のことが好きだった……ただ……」
「ただ、何だ?」
「ただ、兮月のことを完全に忘れられなかったんだ」 藤川蓮の口調には、葛藤が滲んでいた。 「あの子とは初恋だった。 帰国して向こうから連絡してきた時、俺には断るなんてできなかった……でも、凪を失いたくもなかった」
「だから、結婚証明書を偽造して、彼女に正式な夫婦だと思い込ませたってわけか?」 伊藤純一の声には、嘲りが満ちていた。 「藤川蓮、お前は本当に、どうしようもないクズだな」
藤川蓮は数秒間黙り込んだ。 再び口を開いた時、その声には自嘲的な笑みが混じっていた。 「ああ、俺は欲張りなんだ。 兮月の情熱も、 凪の優しさも、 両方が欲しかった…… いっそ、 二人が平和に共存できたら、 どんなに素晴らしいだろうって、 本気で考えたこともあった」
「夢でも見てるのか?」 伊藤純一が遮った。 「凪がお前が二股をかけていると知ったら、許してくれるとでも思ってるのか?」
「彼女は知らないさ」藤川蓮は彼の言葉を遮った。 「あの子は純粋すぎて、俺を疑うことなんて一度もない。 俺と兮月が抱き合っている最中に電話がかかってきても、鈍感すぎて何も気づかないんだから……」
その言葉は、最後の一撃となって凪を打ちのめした。
彼女は踵を返し、声もなくエレベーターへと歩き出した。 足取りはふらつき、まるで綿の上を歩いているかのように、踏ん張りがきかない。
なんて滑稽なんだろう。 二年もの間愛し続けた男が、ここまで徹底したクズだなんて。
……
凪は、どうやって家に帰ったのか覚えていなかった。
機械的にドアを開け、スリッパに履き替え、そのまま厨房へと向かって夕食の支度を始める。
午後六時三十分、ドアの鍵が回る音がした。
藤川蓮がいつものように入ってくる。 手には、新鮮な百合の花束。
「ただいま」 微笑みながら近づき、彼は凪の額に軽く唇を落とした。
凪は花束を受け取り、無理やり笑顔を作った。
蓮は彼女の異変に気づいていないようで、勝手に上着を脱ぎながら言った。 「何かいい匂いがするな。 何作ったの?」
「あなたの大好きな、豚の角煮よ」 凪は振り向き、花を花瓶に挿した。 顔を見られないように。
夕食の間中、凪は蓮の一挙手一投足を観察していた。
彼の携帯がずっと手元に置かれ、画面は下向き。
それに、時折ちらりと画面を覗き込むようにして、何かを待っているようだった。
「ちょっと頭が痛くて」 食後、 凪はふと言い出した。 「二階から薬、 取ってきてくれない? ベッドサイドの引き出しに入ってるはず」
蓮はすぐに立ち上がった。 「ああ、いいよ。 そこで待ってて」
彼の足音が階段で遠ざかるのを確認すると、凪は素早く彼の携帯を手に取った。
画面が点灯し、パスワード入力が求められる。
自分の誕生日、二人の“結婚記念日”……どちらも違った。
三度目を試そうとしたその時、一条のメッセージがポップアップした。 「蓮、いい知らせよ。 私、妊娠したみたい」
凪の指が空中で凍りついた。
画面の文字が、鋭い刃のようにまっすぐ心臓を貫く。
彼女はその文面を凝視していたが、階段を下りてくる足音が聞こえ、慌てて携帯を元の位置に置いた。
「あったよ」 蓮が薬と水を持って戻ってきた。 「顔色、悪いな。 早く休んだほうがいいんじゃない?」
凪は薬を受け取り、飲み込むふりをした。 「大丈夫。 それより、 会社でまだ用事が残ってるんじゃない? ずっと携帯、 気にしてたみたいだけど」
蓮の表情が一瞬こわばったが、すぐに平常心を取り戻した。 「ああ、プロジェクトにちょっとした問題が出ちゃってさ。 戻らなきゃいけないかも」
「行ってらっしゃい。 お仕事、頑張って」凪は微笑んだ。 心は、じわりと血を滲ませていた。
蓮は慌ただしく上着を羽織り、出かける前に彼女の頬に軽くキスをした。 「待たないで、先に寝てていいから」
ドアが閉まる音と同時に、凪の笑顔は消えた。
涙が一気に込み上げる。 彼女は顔を上げ、深く息を吸い込んだ。 どうあがいても、零れ落ちそうなそれを必死に堪えた。
長い時間をかけてようやく落ち着くと、凪は携帯を手に取り、二年間も音信不通だったあの番号に電話をかけた。
「お父さん、私、家に帰って政略結婚するわ!」
章一覧
全202章
/0/23101/coverbig.jpg)
/0/26034/coverbig.jpg)
/0/24621/coverbig.jpg)
/0/27150/coverbig.jpg)
/0/19244/coverbig.jpg)
/0/24892/coverbig.jpg)
/0/27221/coverbig.jpg)
/0/27166/coverbig.jpg)
/0/27154/coverbig.jpg)
/0/27104/coverbig.jpg)
/0/27134/coverbig.jpg)
/0/26753/coverbig.jpg)