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深夜十一時。長谷川彰はバスローブを羽織り、浴室から出てきた。

ベッドのそばに立ち、携帯に目を落とした。トーク画面は空っぽで、自分が送った文面には、何の返信もなかった。

彰は、ゆっくりと眉間にしわを寄せた。

こんな風に放置されたことなど、一度もなかった。

メッセージを送るのも、電話をかけるのも、折れて謝るのも、いつも藤堂柚の方からだった。

だが今回は、丸三時間も待ったというのに、携帯は沈黙を保ったままだった。

電話をかけると、呼び出し音が四回鳴ったところで切られた。かけ直すと、留守番電話に繋がった。

彰は携帯をベッドに叩きつけ、バスローブの襟元を乱暴に緩めた。胸の内に、得体の知れない怒りが渦巻いていた。

着替えようとクローゼットの扉を開けたが、その場で足が止まった。

隅にきちんと畳んで置かれていたはずの、数枚のシンプルな白Tシャツとジーンズがなくなっていた。

柚が普段家で着ていた服だ。地味で、デザインも古い。

引き出しを開けると、ネックレス、イヤリング、指輪、そのどれもが値札も付いたままで残されていた。

消えたのは、彼女の私物だけだった。

彰はふと悟った。柚は、本気で出ていくつもりなのだと。

その認識は、彼の胸に渦巻いていた怒りをすっと冷めさせた。

彼は三浦誠の予備の番号に電話をかけ、歯ぎしりしながら言った。「柚の居場所を調べろ。今すぐだ」

誠は一瞬言葉を詰まらせ、ためらいがちに答えた。「長谷川様……奥様は午後、どこにも宿泊登録をしておらず、身分証明書の使用履歴もありません。彼女名義の口座もすべて確認しましたが、消費履歴も宿泊予約もありませんでした」

彰の声が冷たくなった。「食事もするだろうし、寝床もいるはずだ。普段から親しくしている友人たちに当たってみろ」

「はい」、とだけ答えて、誠は電話を切った。

……

その頃、藤堂柚は下町にある一軒の平屋にいた。母親が遺した古い家だ。

部屋は十二畳ほどで広くはなく、家具も古い。外には小さな庭があった。

携帯はマナーモードのままテーブルに伏せてあり、画面が点いては消え、消えては点くのを繰り返していた。

彼女はちらりとそれに目をやった。

彰からの着信が四件、メッセージが三件。その文面は、詰問から命令へ、そして最後には怒りに満ちたものへと変わっていた。

柚は無表情に携帯を裏返し、食事を始めた。

彼が自分を探すことは分かっていた。彰という人間を、彼女は知りすぎていた。

彰はただ、彼女の存在に慣れてしまっただけ。自分に卑屈なまでに従う彼女に。

食事を終え、柚は出かける準備をした。自分の力で生きていくために、仕事を探さなければならない。

玄関の扉を開けた途端、外から一糸乱れぬ足音が聞こえてきた。

集団だった。

柚が目を向けると――

玄関の前に、黒服の男たちが二列にずらりと並んでいた。

黒いスーツに黒いサングラス。背筋を伸ばしたその立ち姿は、威圧的な空気を放っていた。

そして、その二列の男たちの中心に、一人の若い男が立っていた。

仕立ての良い黒いトレンチコートを身に纏い、すらりとした長身に、彫りの深い顔立ち。その眉目には鋭い冷たさが宿り、鷲のように鋭い双眸は、見る者を射竦めるような凄みがあった。

彼の視線が柚に注がれると、その表情にたちまち痛ましさと憐れみの色が浮かんだ。

「見つけたよ、柚」

男は優しく彼女を見つめ、唇をわずかに動かした。

柚は呆然として尋ねた。「あなたは……」

この男に見覚えはなかった。

それなのに、なぜだろう。彼に見つめられた瞬間、心臓がとくんと跳ねた。

奇妙な感覚だった。

恐怖でも、緊張でもない。

それは……言葉では言い表せない、懐かしいような感覚。

男は説明した。「俺は君の兄だ。五十嵐貴臣――迎えに来たよ、柚」

(お兄さん……?)

夢でも見ているのだろうか。

実の家族が、自分を訪ねてきたのだ。

貴臣は、彼女が呆然としているのを見て、一歩近づいた。

彼はトレンチコートのポケットから何かを取り出し、掲げてみせた。

それは、一枚の翡翠の佩玉だった。まるで古い家宝のような、深い緑がかった玉だった。

柚が首から下げているものと、瓜二つだった。

一点の曇りもない白い玉には、精緻な彫刻が施され、裏には小さく「五十嵐」の文字が刻まれていた。

柚の手が、かすかに震えた。

何かを言おうと口を開いたが、喉が詰まって声が出なかった。

「君が五歳で何者かに連れ去られてから、今日まで、実に二十年」 彼の声は少し掠れていた。「父さんと母さんは、二十年間ずっと君を探していた」

柚の目頭が、不意に熱くなった。

次の瞬間、貴臣は自ら腕を伸ばし、彼女をその温かい胸に抱き寄せた。

柚が抱えていたすべての悔しさも、虚勢も、この瞬間に解き放たれた。

自分には、家族がいたのだ。

貴臣は彼女を抱きしめたまま、その背を優しく叩いた。「大丈夫。これからは家族がいる。もう誰にも君をいじめさせない」

その言葉は、柚が必死に閉ざしていた心の扉を開ける、鍵のようだった。

彼女は「わっ」と声を上げて泣き出した。

柚の涙は堰を切ったように溢れ出し、彼女は嗚咽混じりに言った。「私には、お父さんとお母さんがいて、お兄さんも……これからは、もう一人じゃないんだ」

「もちろんだ。みんな君の帰りを待っている。これからは家族一緒にいられる。……長谷川家への借りは、一つ一つ、ゆっくりと返していくさ」

言葉を重ねるごとに、彼の眼差しは冷たさを増していった。

そして最後には、その瞳の温度は氷点下まで下がっていた。

柚は、この突然現れた兄を見つめ、胸に複雑な感情が込み上げてくるのを感じていた。

母が死の間際に遺した言葉を思い出す――本当の家族を見つけなさい、と。

その日が、こんなにも早く訪れるとは思ってもみなかった。

「お兄ちゃん」と、彼女はそっと呼んだ。

貴臣の肩が、気づかれないほどかすかに震えた。

「ああ」

「私たちの家って、何をしてるの?」柚は二列に並ぶ黒服の男たちにちらりと目をやり、ついに心の中の疑問を口にした。

貴臣の口角が微かに上がった。その笑みには、どこか危険な響きが宿っていた。

「君はどう思う?」

柚が答えるより先に、突如、背後から怒号が響き渡った。「お前たち、何をしている!」

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全708章

  1. 第1章第1章 長谷川彰、離婚しましょう
  2. 第2章第2章 奥様の母は、もう逝った
  3. 第3章第3章 実の兄

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