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第2章
翌朝、ダイニングテーブルには手つかずの朝食が二つ、静かに並んでいた。 高橋茜は一睡もしていなかった。 目の下には濃い隈が浮かび、瞼は重く腫れ上がっている。それでも彼女は背筋を伸ばし、椅子に座っていた。その姿は、まるで何かを待つ兵士のようだった。 寝室から、松田和豊が頭を抱えながら出てきた。ひどい二日酔いのようだ。彼はテーブルの向こうに座る茜の姿を見て、気まずそうに視線を逸らした。 茜は壊れたネックレスのことは一言も口にしなかった。 ただ平坦な声で告げる。 「忘れないで、今日は横須賀に行く日よ、父さんと母さんを迎えに行く日」 和豊は一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。やがて思い出したように、「ああ」と曖昧に頷く。今日は、殉職した茜の両親の遺骨が、自衛隊の駐屯地から正式に引き渡される日だった。結婚する時に、彼は約束したのだ。「君の家族は僕の家族だ」と。 「分かってる」 彼の返事には、故人に対する敬意の欠片も感じられなかった。 茜の心は静かに深く沈んでいく。これが最後の確認だった。彼がこの結婚に、ほんの僅かでも誠意を残しているのかどうか。 二人が出かける準備をしていると、和豊のスマートフォンが鳴った。 画面に表示された名前は「結代」。 彼は反射的にベランダに出て、声を潜めて話し始めた。だが、ガラス戸越しに心配そうな声の断片が漏れ聞こえてくる。 「大丈夫か」「俺がすぐ行く」「足首を捻挫?」 茜はリビングに立ったまま、その言葉の破片を拾い集めていた。心はもう何も感じなかった。 電話を終えた和豊が、困惑と、そしてどこか当然だと言わんばかりの表情で戻ってきた。 「結代のお母さんが階段で転んで、足首を捻挫したらしい、結代一人じゃ大変だから、俺、ちょっと様子を見てくる」 茜は信じられないという思いで彼を見つめた。 「今日は、父さんたちを迎えに行く日よ」 「分かってる、でも、ただ物を受け取るだけだろう?お前一人でも行けるはずだ、こっちは生きている人間なんだぞ、怪我人がいるんだ」 その一言が、ナイフのように茜の最後の防御壁を突き破った。 彼女はもう何も言わなかった。争う気力もなかった。 ただ小さく頷く。 「そう、分かったわ」 和豊はその返事に安堵したように、慌ただしく靴を履き替えた。 「じゃあ、行ってくる」 彼は一度も茜の方を振り返ることなく、玄関から出て行った。 ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。 広いリビングに、茜は一人取り残される。窓から差し込む朝の光は、少しも彼女を温めなかった。 彼女は寝室に戻り、クローゼットから一着の黒いスーツを取り出した。それに着替えると、鏡の中の自分はまるで別人のように見えた。表情は消え、その立ち姿には軍人特有の厳粛さが宿っていた。 車は使わなかった。 電車を乗り継ぎ、横須賀にある自衛隊の基地へと向かう。 基地の正門で、武装した警衛隊員に静止された。 茜は身分証を提示する代わりに、背筋を伸ばし、完璧な角度で敬礼をした。 「高橋茜です、高橋健一、高橋雅、両名の遺骨引き取りに参りました」 その二つの名前を聞いた瞬間、若い隊員の顔から全ての表情が消えた。彼は驚きと緊張で体を硬直させ、慌てて、しかし寸分の狂いもない美しい答礼を返した。そしてすぐさま内部通信で報告を入れる。 間も無く、基地の中から階級の高い制服を着た幹部自衛官が早足で現れた。彼は茜の姿を認めると、その目に深い尊敬と、そして痛惜の念を浮かべた。 「高橋一尉、……いえ、茜さん、お待ちしておりました」 幹部に先導され、茜は基地の中へと足を踏み入れる。 すれ違う全ての自衛官が、彼女の姿を認めると自発的に足を止め、敬礼を捧げた。 松田家で受けた、あの冷たい仕打ちとは天と地ほどの差があった。 彼女が案内されたのは、基地の一角にある厳かな記念講堂だった。 中央には、二つの日章旗に覆われた白木の箱が安置されている。 その傍らには、最高位の礼装に身を包んだ、肩章の星が眩しい一人の老人が立っていた。元東部方面総監、藤原辰雄。かつて茜の父親の直属の上官であり、茜にとっては師であり、父親代わりのような存在だった。 藤原は茜の姿を見ると、その厳格な顔を和らげ、慈愛に満ちた目で言った。 「茜、よく来たな、藤原のおじさんはずっと待っていたぞ」 その声を聞いた瞬間、茜の目の縁がじわりと熱くなった。この人の前でだけは、全ての張りを解いてしまいそうになる。 彼女は深呼吸をして、感情を喉の奥に押しとどめた。 そして両親が眠る箱に向かい、ゆっくりと、深く敬礼をした。 背筋は真っ直ぐに伸びている。 まるで、彼女がまだ特殊作戦群『飛龍』の一員であったあの頃のように。 ここだけが、自分と、そして両親が本来あるべき尊厳を与えられる場所なのだと、茜は静かに悟っていた。
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