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第1章
「ただいま」 玄関のドアが開く音と、夫である松田和豊の低い声が聞こえた。高橋茜は、だしの香りが立ち上るキッチンで手を止める。 壁の時計は、午前零時をとうに過ぎていた。 いつものことだ。 彼女は慣れた手つきで、夜食のお茶漬けの準備を続ける。胃がもたれないように少し薄味に。彼の好みに合わせて、焼き鮭の身を丁寧にほぐす。結婚して三年。彼の食生活も生活リズムも、全て茜の日常に組み込まれていた。 テーブルの上に置かれたスマートフォンが、不意に通知を知らせて光った。 SNSの更新通知。 篠崎結代という名前が目に入る。 茜の指が一瞬だけ止まった。 見たくない。でも見てしまう。それがこの一年間の、茜の矛盾した習慣だった。彼女は和豊にとって、ただの大学時代の友人ではない。彼の心の特別な場所にいる女性だ。 指が滑るように画面に触れる。 開かれた写真の中で、篠崎結代はJ-WINGSの真新しい機長服に身を包み、誇らしげにトロフィーを掲げていた。完璧な笑顔。完璧なキャリア。彼女の周りだけが、眩しい光に満ちているように見えた。 添えられた文章が、茜の目に突き刺さる。 「松田君のサポートに心から感謝。この賞はあなたと分かち合いたい」 茜の視線は、その甘ったるい言葉を通り過ぎた。そして結代の首元で凍りついた。 ライトを反射して青く輝く、一つのネックレス。 繊細なプラチナチェーンに、深い海の色を宿したサファイア。その両脇を飾る、小さな鸢尾の花のデザイン。 見間違えるはずがない。 母、高橋雅の形見だった。 頭の中で何かが断ち切れる音がした。血が沸騰して脳に駆け上る。耳鳴りが世界を支配し、キッチンの優しいだしの香りも、時計の秒針の音も、全てが遠ざかっていく。 茜は、自分がどうやって寝室にたどり着いたのか覚えていない。 震える手で、クローゼットの奥に仕舞ってあった自分のジュエリーボックスを開ける。 ベルベットの柔らかな窪み。 いつもなら、あのネックレスが静かに収まっているはずの場所。 そこは、ただ虚ろな影を落としているだけだった。 空っぽだった。 冷たい水が、頭のてっぺんから足の爪先まで一気に駆け巡る。両親が遺してくれた、たった一つの繋がり。茜にとってそれは、宝石以上の魂の一部だった。 「何してるんだ、こんな時間に」 リビングから、和豊の苛立った声がした。酒の匂いが鼻をつく。 茜はスマートフォンを握りしめたまま、彫像のようにリビングの中央に立った。彼の顔を見つめる。その目は氷のように冷え切っていた。 「こんな時間に寝もしないで、誰に当てつけてるんだ」 和豊はネクタイを緩めながら、不機嫌を隠そうともしない。 茜は無言で、スマートフォンを彼に向けた。画面には、結代の輝かしい笑顔と、母のネックレスが映し出されている。 「これ、説明してくれる?」 声が自分のものではないように掠れていた。 和豊は写真を見て、一瞬、狼狽の色を目に浮かべた。だがすぐに、アルコールと傲慢さがそれを覆い隠す。 彼は鼻で笑った。 「ああ、それか。たかがネックレスじゃないか。結代が受賞したんだ。お祝いにプレゼントの一つくらい、いいだろう?」 「たかが?」 茜の体が小刻みに震え始めた。 「あれは、母さんの形見よ」 その言葉に、和豊の表情が固まる。だが、それは罪悪感からではなかった。自分の嘘を見抜かれたことへの苛立ちと怒りだった。 「お前のものだろうが、俺のものだろうが同じことだろ!いちいちうるさいな!」 彼は知っていたのだ。あれが茜にとってどれほど大切なものか、知っていて、それでもあの女に渡したのだ。 胃の奥が鋭い痛みで痙攣する。 茜は衝動的に、スマートフォンの通話ボタンを押した。相手は篠崎結代。 「おい、やめろ!」 和豊が止めようとするが、間に合わない。 数回のコールの後、電話が繋がった。受話器の向こうから、甘く、そしてどこか勝ち誇ったような声が聞こえる。 『もしもし、茜さん?こんな夜更けにどうしたの?』 「篠崎さん」 茜は奥歯を噛み締めて、震えを無理やり押し殺す。 「私の母のネックレスを返してください」 一瞬の沈黙。 そして、電話の向こうでくすりと軽い笑い声がした。 『あら、どういう意味かしら?これは和豊さんからいただいた、大切なプレゼントなの、妻であるあなたが、そんなに心の狭いことを言うなんて』 「結代に手を出すな!」 和豊が茜の手からスマートフォンをひったくった。 「結代、心配するな、こいつが理不尽なことを言ってるだけだ」 彼は必死に結代を庇い宥めている。その姿が、茜の神経を一本また一本と焼き切っていく。 電話を切った和豊は、鬼のような形相で茜を睨みつけた。 「お前、気でも狂ったのか!結代を困らせるなんて最低だぞ!」 もう限界だった。 涙が堰を切ったように頬を伝う。茜は和豊のシャツの袖に縋りついた。声は、もはや懇願に近かった。 「和豊、お願い、あれだけは返して、母さんなの、私の母さんなのよ……」 「しつこい!」 和豊はその手を乱暴に振り払った。 バランスを崩した茜の体は、リビングのローテーブルの角に強く腰を打ち付けた。鈍い音が響く。 彼は床に蹲る茜を冷たく見下ろした。 「もういい加減にしろ、高橋茜、みっともない、たかが古いネックレスだろう、明日、結代に言って返させればいいだけの話だ」 翌日、篠崎結代は本当にやってきた。 しかし、その顔はまるで世界で一番の被害者であるかのように、悲しみと涙で濡れていた。 和豊の前で、彼女はゆっくりと首からネックレスを外す。 「茜さん、ごめんなさい、こんなに大切なものだったなんて知らなくて……」 その言葉とは裏腹に、彼女の指がわざとらしく滑った。 カシャン。 青い宝石は、硬い大理石の床に叩きつけられた。 澄んだ残酷な音が響く。 鸢尾の花を飾っていた小さなダイヤモンドの一つが、衝撃で留め金から外れ、コロコロとソファの下へと転がっていった。 茜の心臓も、一緒に砕け散った。 「ああ!」 彼女は悲鳴を上げ、四つん這いになって床を探す。小さな小さな光のかけら。母の笑顔の記憶。 「結代、大丈夫か!」 和豊は、よろめくふりをした結代の肩を慌てて抱きとめた。そして、床に這いつくばる茜に向かって怒鳴り声を上げた。 「お前、結代をどんな気持ちにさせてるんだ!返してもらったんだから、それでいいだろうが!これ以上何を望むんだ!」 茜はソファの下の暗闇を探し続ける。 指先は冷え切り、何も感じなかった。
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