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第3章 砕かれた離婚協議書と逃れられない戦場
午後の牧野グループ最上階、CEOオフィスには張り詰めた空気が漂っていた。朝倉文佳は秘書として、牧野修二に午後の会議スケジュールを報告していた。 きっちりとしたビジネススーツに身を包み、髪は後れ毛一本なくまとめられていた。顔に浮かべた完璧な笑みは、今朝の狼狽ぶりとはまるで別人のようだった。 修二は重厚なデスクの向こうで報告を聞き流しながら、どこか上の空で書類にペンを走らせていた。 報告を終えても、文佳はいつもと違ってその場を立ち去ろうとはしなかった。指先をきつく握りしめ、覚悟を決めるように息を整えていた。 「牧野社長」彼女は事務的な口調で切り出した。「私的なことで、ご相談がございます」 修二はペンを止め、顔を上げた。冷ややかな視線が文佳を射抜いた。 「何だ」 文佳は静かに息を吸い込むと、手元のファイルから一枚の書類を取り出し、彼の前にそっと差し出した。 「私たちの三年間の契約ですが、来月で満了となります」 それは、彼女がずっと前から準備していた離婚協議書だった。昨夜の出来事が背中を押したのだ。すべてを一刻も早く終わらせなければならない、と。 修二の視線が「離婚協議書」の文字に落ちた瞬間、その双眸が昏く沈んだ。オフィスの空気が一気に凍りついたように重くなった。 「そんなに、ここから出て行きたいのか」 押し殺した声の奥に、隠しきれない怒りが滲んでいた。 文佳は目を伏せた。 「契約は契約です。それに、牧野社長の目的はすでに果たされたはずです」 この結婚を利用して一族から会社の支配権を完全に奪い取ること――彼女が言っているのはそのことだった。 「それに……」文佳は一瞬ためらい、苦渋を滲ませて言葉を継いだ。「長瀬様もお戻りになりました。社長も、彼女に対してけじめをつけられるべきかと」 和歌子の名が出た瞬間、修二の表情は和らぐどころか、いっそう険しさを増した。昨夜のこと、そしてあのキャッシュカードのことが脳裏をよぎり、胸の奥で苛立ちが渦巻いた。 修二は書類の中身をろくに見もせず、デスクの端へ押しやった。背もたれに体を預け、品定めするように冷徹な眼差しで文佳を見据えた。 「離婚を急ぐ必要はない」彼は冷たく言い放った。「お前が俺の妻としての役目を終える前に、片付けてもらうことがもう一つある」 文佳は不審そうに彼を見上げた。 「何でしょうか」 「明日は母の誕生日パーティーだ。牧野の本家で開かれる。お前には、牧野家の嫁として出席する義務がある」 有無を言わせない命令だった。 牧野の本家。そして修二の母、牧野芳恵――初めから文佳を見下し、事あるごとに執拗にいたぶってきた女だ。その名を聞いただけで、文佳の顔からすっと血の気が引いた。 「私は……」 断ろうと唇を開いた。だが、修二の冷淡な瞳に射すくめられ、拒絶の言葉は喉の奥に引っ込んだ。 「それが、お前の最後の義務だ」 修二は文佳の言葉を遮るように離婚協議書をつかみ取ると、中身に目を通すこともなく、デスク脇のシュレッダーへと放り込んだ。 甲高い裁断音が静かな室内に響き渡った。文佳が長い時間をかけて用意した書類は、一瞬のうちに無残な紙屑へと変わっていった。それに引きずられるように、彼女の胸の内にあったわずかな希望も砕け散った。 青ざめた文佳の顔を見つめながら、修二は胸中の不可解な苛立ちがわずかに鎮まるのを感じていた。彼女を思い通りに支配できている――その感覚が。 「明日のパーティーに必要な書類が本家の書斎にある。今夜のうちに戻って準備しておけ」 息をつく暇さえ与えず、さらなる命令が下された。 それは今夜、敵意に満ちたあの「戦場」へ、文佳がたった一人で乗り込まなければならないことを意味していた。 「……かしこまりました」 声はかすかに震えていたが、拒む余地など残されていないことは自分が一番よく分かっていた。 文佳は身をかがめ、床に散らばったわずかな紙片をゴミ箱へと拾い集めた。まるで、自分自身の最後の尊厳をひとつずつ埋葬していくかのように。 文佳がオフィスを後にしようとしたその時、修二の私用スマートフォンが短く震えた。もう一人の秘書、坂東恭太からの着信だった。 『社長、調査結果が出ました』 受話器越しに聞こえる坂東の声は、いつも通り淡々としていた。 『長瀬様は昨夜、確かにパーティーに出席されていましたが、途中で退席されており、その後の足取りはつかめていません。ホテルに予約は入っていたものの、チェックインの記録はありませんでした』 修二の眉間の皺が深くなった。足取りが不明――その事実が、昨夜の相手はやはり和歌子だったのだという確信を強めた。 「朝倉秘書はどうだ」 『確認いたしました。昨夜の社内仮眠室の利用ログに、確かに朝倉秘書の名前が残っています。利用時刻は午後十一時から午前七時までです』 その報告に、修二の胸にわずかな疑念が生じた。本当にただの思い過ごしだったのか。朝倉文佳は本当に、会社で残業していただけだというのか。 通話を終えた修二は、部屋を出ていく文佳の後ろ姿に、探るような視線を投げかけた。この女は、見かけほど単純ではないのかもしれない。 一方、オフィスを出た文佳は、扉が閉まった瞬間に全身の力が抜けていくのを覚えた。 廊下の壁に背中を預け、目を閉じて深く息を吸い込んだ。 牧野の本家――そこは間違いなく、過酷な戦場になる。そして自分は今夜、たった一人であの場所へ向かわなければならないのだ。
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