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第2章 ネクタイの探りと答えのない問い

朝倉文佳は別荘に戻ると、素早く部屋着に着替えてキッチンに立った。修二のための朝食の準備を始めた。その手際は、この三年間の日々で身体に深く刻み込まれたものだった。まるで、昨夜の狂乱など初めから存在しなかったかのように。 手慣れた様子で卵を焼き、パンをトーストし、彼のためにブラックコーヒーを淹れた。これらの動作の一つひとつが、自分が「合格点の妻」であることの証明だった。 玄関から、電子ロックが解除される微かな音が響いた。文佳の心臓が一瞬だけ跳ねた。彼――牧野修二が帰ってきたのだ。 朝食のプレートを手にしてキッチンを出ると、リビングに入ってきた修二と鉢合わせた。スーツを着替えてはいたものの、眉間に刻まれた疲労と不機嫌さは隠せていなかった。 「お帰りなさいませ」 文佳は深く頭を下げ、彼の視線から逃れるように俯いた。どんな些細な綻びも見抜かれてしまうのではないかと恐ろしかった。 修二の視線が、まるで獲物を値踏みするかのような鋭い眼差しで、彼女の頭のてっぺんから爪先までを執拗になぞった。顔色の悪さも、必死に隠そうとしている身体の強張りも、彼が見逃すはずはなかった。 「昨夜はどこにいた?」 ネクタイの結び目を緩めながら尋ねた。その声は掠れており、明らかな詰問の色を帯びていた。 文佳の心臓が、どくんと大きく音を立てた。だが、答えはとっくに用意してあった。 「昨夜は牧野様からご指示いただいた資料の処理がございまして、会社の仮眠室におりました」 完璧な言い訳だった。彼の有能な秘書として、徹夜の残業は日常茶飯事だった。 修二はすぐには答えなかった。ただダイニングの椅子にどさりと腰を下ろし、目の前に置かれたコーヒーを一口すすった。重苦しい沈黙が、文佳の呼吸を圧迫した。 「そうか?」 カップを置いた彼は、感情の読めない声で言った。 「俺がお前に緊急の仕事を頼んだ記憶はないが」 文佳の手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。しかし、顔には平静を装ったままだった。 「城西地区のプロジェクトに関する追加条項でございます。昨夜は少々お酒を召されていましたので、お忘れになったのかもしれません」 修二は彼女をじっと見つめた。その仮面のような表情にひび割れを見つけようとするかのように。だが、文佳は長い睫毛を伏せ、すべての感情をその奥に隠していた。 「来い」 突然、彼が命じた。 文佳は従順に歩み寄った。修二は新しいネクタイを手に取り、彼女に突き出した。 「締めろ」 これは、ふたりの間に存在する数少ない「親密な」やり取りのひとつだった。文佳は冷え切った指先で、滑らかなシルクのネクタイを受け取った。 彼に近づくと、ふたりの距離が一気に縮まった。ボディソープと微かに残るアルコールの匂いが混ざり合った彼の香りが、否応なく昨夜の記憶を呼び覚ました。頬が、知らず知らずのうちに熱を帯びた。 修二は彼女の頬の赤みを見逃さなかった。突然手を伸ばすと、彼女の顎を掴んで無理やり顔を上げさせた。 「なぜ顔が赤い? 後ろめたいことでもあるのか?」 彼の吐息が、危険な圧力を伴って彼女の顔にかかった。 文佳は漆黒の瞳の中に、狼狽する自分の姿を見た。必死に平静を装って答えた。 「……いえ。キッチンの熱気のせいです」 修二の親指が、彼女の顎のラインをなぞった。その仕草はひどく官能的でありながら、向けられる眼差しは氷のように冷たかった。 「そうだといいがな」 彼はあっけなく手を離した。文佳はすぐに半歩後ずさり、距離を取った。そして、まるで何千回も繰り返してきたかのように、素早い動きで彼のネクタイを結び上げた。 「できました」 そう呟くと、息の詰まる空間から逃げ出すように背を向けた。 「待て」 修二が再び彼女を呼び止めた。 スーツのポケットから小さなジュエリーケースを取り出すと、テーブルの上へと放り出した。 「これはお前が落としたものか?」 文佳が視線を向けると、そこには一度も見たことのないピアスがあった。細かなダイヤモンドが散りばめられた華美なデザイン。到底、文佳の趣味ではなかった。 彼女はすぐに首を横に振った。 「私のものではありません」 それは、彼がホテルの部屋の絨毯で見つけたものだった。最初は「和歌子」のものだと思ったが、今、彼はこれを文佳への揺さぶりに使おうとしていた。 文佳の否定は予想通りだったが、なぜか無性に苛立ちが募った。自分は何を期待していたというのか。彼女が認めるとでも思ったのか。 修二は手を振り、下がっていいと合図した。文佳への疑念は完全には晴れなかったが、証拠は何ひとつない。 文佳はまるで恩赦を受けた罪人のように、キッチンへと逃げ帰った。冷たい調理台に寄りかかり、深く息を吐き出した。まるで、研ぎ澄まされた刃の上を歩かされたような気分だった。 リビングでは、修二が目の前の精巧な朝食に目を落としていたが、食欲などまったく湧かなかった。彼は秘書の坂東恭太に電話をかけた。 「坂東、長瀬和歌子の昨夜の足取りを洗え」 その声は、いつもの冷徹さを取り戻していた。 「それと、俺が昨夜、朝倉秘書に仕事を指示したかどうか確認しろ」 「……あと、最高級の滋養品とアフターピルを購入し、長瀬の住まいに届けろ」 電話越しに、坂東がかすかに息をのんだ気配が伝わってきた。だが、その高いプロ意識ゆえに、余計な詮索を口にすることはなかった。 『かしこまりました。ただちに対応いたします』 通話を切った修二の瞳には、深く探るような光が宿っていた。長瀬和歌子であれ、朝倉文佳であれ――彼はすべてを白日の下に晒すつもりだった。

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章 契約の夜、身代わりの朝
  2. 第2章第2章 ネクタイの探りと答えのない問い
  3. 第3章第3章 砕かれた離婚協議書と逃れられない戦場

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