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チャプター 1 奪われた白薔薇

「「白薔薇シリーズのデザイナークレジットは、美羽の名前に変更する」   そう告げた神代恭一郎の声は、仕事の確認をする時と少しも変わらなかった。   凛はすぐに返事をしなかった。   廊下の向こうから、拍手と笑い声が聞こえてくる。グラスが触れる音も、途切れずに続いていた。   一階の大広間では、二十年ぶりに見つかった実の娘、神代美羽を紹介するお披露目の席が開かれている。   その真上の二階客室で、凛は机の上に広げていた白薔薇のファイルを閉じた。「……白薔薇は、私のデザインです」   「白薔薇をデザインしたのが君だということは分かっている。貢献も評価している」恭一郎は少し間を置いた。「だが、美羽は戻ったばかりだ。神代家の娘として周囲に認められる実績が要る。凛なら分かるだろう」   凛は聞き返した。「白薔薇のデザイナー名を、美羽さんに渡せということですか」   恭一郎は眉を動かした。「言い方を選びなさい。これは神代家としての判断だ」   「白薔薇は神代ジュエリーの新シリーズで、神代の設備と人員を使って商品化した。個人の作品として扱うには無理がある」恭一郎は机の上の資料へ視線を落とした。   凛はファイルの端を押さえた。   中に入っているのは、十年前のラフを印刷した複写だった。十八歳の誕生日のあとに描いた、最初の白薔薇のネックレスである。   まだ商品企画になる前の、個人作品だった。紙の原画はアトリエに保管し、日付の残るスキャンデータだけは自分でも保存していた。   九条蒼介だけには見せた。式の日につけてやる、と蒼介は言った。   この客室に移されたのは、今朝だった。   昨日まで使っていた部屋は、もう美羽のものになっている。服は先に運ばれ、棚に残っていた本や資料だけが、使用人によってこの客室へ移された。   段ボールの中には、何冊ものスケッチブックが横向きに詰め込まれていた。角が少し折れている。   恭一郎は、凛の沈黙を了承と受け取ったらしい。「それに、凛は近いうちに九条家へ嫁ぐ。神代の後継者として前に出る必要はもうない。美羽とは立場が違う」   凛は顔を上げた。「もし、私が九条家に嫁がなかったら?」   恭一郎は初めて凛を正面から見た。   「蒼介くんとの婚約は続いている。彼は無責任な男ではない」   「そうですか」   「凛」恭一郎の声が少し低くなる。「今夜の宴では余計なことを言わないでくれ。美羽は慣れない場で緊張している。凛が支えてやれば、すべてうまく収まる」   その時、廊下から早い足音が近づいてきた。   神代明子が扉の前で足を止める。   「凛、佐伯会長がいらしてるわ。美羽ではまだ話が続かないの。あなた、下で対応してちょうだい」   明子は淡い色の訪問着を着ていた。胸元には、凛が以前選んだ真珠のブローチがついている。   凛は母を見た。「私は、今日はどういう立場で下りればいいんですか」   明子は一瞬、意味が分からないという顔をした。   「どういう立場って……あなたは神代のことを一番よく知っているでしょう」   「美羽さんのお披露目の席ですよね」凛は言った。   「だからこそよ。美羽の顔を立てるためにも、あなたが裏で支えないと」   恭一郎も頷いた。   「佐伯会長は白薔薇シリーズにも関心を持っている。説明は君の方が慣れているだろう」   凛はファイルを机に置いた。   「分かりました」

一階へ下りると、空気が変わった。   花の香りと香水、シャンパンの匂いが混ざっている。   大広間の中央には、美羽が立っていた。白いドレスを着て、隣の婦人に何か尋ねられている。   答えに詰まった美羽が凛を見た。   明子がすぐに凛の背中を押した。   「凛、佐伯会長のご対応をお願い」   凛は美羽の横に立ち、婦人へ向き直った。   「佐伯会長。先ほどのお話ですが、白薔薇シリーズは古典的な蔓模様を現代的に組み直したものです。中心石には淡水真珠を使う予定で……」   説明を始めると、美羽はほっとした顔で微笑んだ。   その顔を見て、凛は言葉を切りそうになった。   けれど佐伯会長が頷いているので、最後まで説明した。   会話が終わると、美羽が小さな声で言った。   「ありがとうございます、凛さん。私、こういう話はまだ全然分からなくて」   「美羽さんも、覚えれば分かります」   凛はそう返した。   美羽は少し困ったように笑っただけだった。   その時、大広間の照明が一段落とされた。   司会者が前へ出る。   「皆様、本日は神代家のご令嬢として、美羽様をご紹介する席にお集まりいただき、誠にありがとうございます。ここで、神代家より新作発表がございます」   凛は顔を上げた。   黒いベルベットの箱を持って前に出たのは、九条蒼介だった。   彼と目が合う。   蒼介はすぐに視線を外した。   箱が開かれた。   中に入っていたのは、白薔薇のネックレスだった。   凛の隣で、美羽が息を呑む。   「まあ……」   司会者が声を張る。   「神代ジュエリー新シリーズ、白薔薇。その最初の一点を、本日、神代美羽様へ」   拍手が起きた。   蒼介は美羽の後ろに立った。   美羽が少し首を傾ける。   蒼介の指が留め具を留めた。   白薔薇が、美羽の鎖骨の上で光った。   凛は、その手元を見ていた。   十年前、同じ人の手が、あのデザイン画をめくった。   結婚式の日につけてやる、と言った。   今、その手は別の女の首に同じ白薔薇をかけている。   九条正臣が前へ出た。   「続いて、九条家よりご報告があります」   広間が静かになる。   凛は蒼介を見た。   蒼介は美羽の隣に立ったままだった。   正臣は穏やかな声で告げた。   「神代家と九条家の婚約について、両家で協議を重ねてまいりました。本来、この婚約は神代家の血筋を継ぐ令嬢と九条家の後継者を結ぶものです」   凛の手から、持っていた資料が少し滑った。   「よって、婚約者を神代凛さんから神代美羽さんへ改めることとなりました」   ざわめきが広がった。   誰かが凛を見た。   一人が見ると、周りも続いた。   美羽は不安そうに蒼介の袖を掴んだ。   「蒼介さん……」   蒼介は小さく頷き、美羽を落ち着かせた。   凛はその様子を見ながら、前へ出た。   蒼介が気づく。   「凛」   乾いた音が広間に響いた。   蒼介の顔が横を向く。   美羽が短く悲鳴を上げた。   近くの客がグラスを落としかける。   凛の手のひらは熱かった。   「覚えている?」   蒼介は頬を押さえず、凛を見た。   「この白薔薇を、誰のために描いたか」   蒼介は答えなかった。   恭一郎が声を荒げる。   「凛、何をしている。すぐに謝りなさい」   明子も青い顔で近づいてきた。   「凛、今はだめよ。お願いだから」   美羽は涙を浮かべていた。   「凛さん、ごめんなさい。私、何も知らなくて……」   凛は美羽を見た。   美羽の手は、白薔薇の花びらに添えられていた。   蒼介が低く言った。   「凛。今日だけは、やめてくれ」   その声には怒りよりも、疲れがあった。   凛は胸元に手を伸ばした。   神代家の家紋バッジを外す。   それを近くのテーブルに置いた。   金属が白い皿に当たり、小さな音を立てる。   「今夜で終わりにします」   恭一郎の顔色が変わった。   「神代家の娘としても、九条蒼介の婚約者としても、ここにいるのは今日で最後です」

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章一覧

全22章

  1. 第1章チャプター 1 奪われた白薔薇
  2. 第2章チャプター 2 もう娘じゃない
  3. 第3章チャプター 3 九条蓮という男

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