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チャプター 2 もう娘じゃない

神代凛が家紋を象ったピンを置いたあと、誰もすぐには声を出さなかった。   小さな金属片が、白いクロスの上に転がっている。   それを見て、神代恭一郎は眉間に深い皺を寄せた。   「凛。その神代家のピンを拾いなさい」   命令の声だった。   凛は拾わなかった。   恭一郎は人前で怒鳴る男ではない。   少なくとも、外ではそうだった。彼はいつも声を抑え、正しい言葉を選ぶ。そうすれば、どれほど冷たいことを言っても、家の判断に聞こえるからだ。   恭一郎は声を抑えて言った。「君の気持ちは分かる。だが、婚約者の変更も白薔薇の発表も、神代家として決めたことだ」   「神代家として?」   凛は聞き返した。   「そうだ。美羽には、神代の娘として立つ場所が必要だ。君の貢献は、別の形で評価する」   別の形。   凛はその言葉を何度聞いただろう。   信託を外された時も。   後継者教育から外された時も。   会議室の席がなくなった時も。   いつも同じだった。   君のためだ。   家のためだ。   別の形で評価する。   けれど、その「別の形」が凛の手元に届いたことは一度もない。   神代明子が美羽の肩を抱いたまま、困ったように言った。   「凛、お願い。今日だけは我慢して。家族なんだから」   家族。   その言葉だけが、いつも凛を黙らせてきた。   美羽は明子の腕の中で、小さく首を振った。   「お母様、私がいない方がよかったんですね……。私が戻ってきたから、凛さんがこんなに傷ついて」   「美羽、そんなことを言わないで」   明子はすぐに美羽を抱き寄せた。   凛はその様子を見ていた。   美羽は一度も、白薔薇を外そうとはしなかった。   細い指先は、ずっと花びらの下に添えられている。   九条蒼介が低く息を吐いた。   「凛、少し話そう」   「この場で話してください」凛は蒼介に言った。   「この場で凛と話すのは無理だ」   「なぜ?」   蒼介は周囲を一瞥した。   「凛も分かっているはずだ。今これ以上騒げば、神代にも九条にも傷がつく」   凛は彼を見た。   「私には?」   蒼介は一瞬、言葉を止めた。   「君の居場所まで奪うつもりはない」   その声は、静かだった。   本当に、彼は自分を残酷だと思っていないのだ。   「美羽とは結婚する。だが、君を手放すとは言っていない」   会場の誰かが息を呑んだ。   凛は、少しだけ笑った。   十年信じた男が、こんなにもはっきり別の形を差し出している。   妻ではなく、名前のない場所。   表ではなく、影。   それを優しさだと思っている。   「九条さん」   その呼び方に、蒼介の眉が動いた。   「私は、あなたのそういうところが一番嫌いです」   蒼介の顔から、初めて余裕が消えた。   凛はバッグから一枚の封筒を出した。   「本日付で、神代グループ特別企画室を辞職します」   恭一郎の目が鋭くなった。   「凛、感情で仕事を投げ出すのはやめなさい」   「感情ではありません。準備はしていました」   凛は封筒とは別に、数枚の書類を取り出した。   そこには、白薔薇シリーズの初期スケッチ番号、制作日、使用した素材案、そして原画データの保存場所が記されている。   一番下には、メールの件名が印刷されていた。   『白薔薇シリーズ権利確認について』   恭一郎の表情が変わった。   「この権利確認の申立書は何だ」   「今朝、デザイナー表記が変わっていると知って、藤原アートコレクションの作品調査窓口へ予備資料を送りました。これは正式に調査を申し立てるための書類です」   本当は、送るつもりはなかった。   父と話せば戻るかもしれない。   蒼介が一言、止めてくれるかもしれない。   そんなくだらない期待が、まだ凛の中に残っていたからだ。   けれど白薔薇は、美羽の首にかけられた。   婚約も、その場で美羽に渡された。   もう十分だった。   凛はスマートフォンを開き、画面を恭一郎に見せた。   送信予約の時刻は、午後八時三十分。   あと一分もなかった。   「送信先は、神代グループ法務部、佐伯会長の秘書室、藤原アートコレクションの作品調査窓口、それから海外の著作権管理機関です」   「今すぐ取り消しなさい」恭一郎の声が低くなった。「会社の信用に関わる」   凛は聞いた。「私の名前には関わらないんですか」   恭一郎は答えなかった。   明子が泣きそうな声を出した。   「凛、お願い。あなたは昔から聞き分けのいい子だったでしょう?美羽は戻ってきたばかりなの。少しだけ、少しだけでいいから譲って」   凛は母を見た。   「お母様にとっての少しは、私にとっての十年でした」   明子の顔がこわばった。   その時、凛のスマートフォンが小さく震えた。   送信完了。   たった四文字が、画面に表示されていた。   広間の端で、神代グループの専務が携帯を見た。   次の瞬間、彼の表情が崩れる。   彼は急ぎ足で恭一郎のそばへ来た。   「社長」   「その報告はあとにしろ」   「佐伯会長の秘書室からです」   恭一郎の顔が固まった。   専務は声を落とした。   「明日の面談は、いったん延期したいとのことです。白薔薇シリーズのデザイナー表記と原画の権利に確認事項があるなら、先に資料を出してほしいと」   明子が口元を押さえた。   美羽の指が、白薔薇を強く握る。   恭一郎は凛を睨んだ。   「君は、家を壊すつもりか」   「違います」凛は言った。「私の名前を返してほしいだけです」   蒼介が一歩近づいた。   「凛。今ならまだ間に合う。俺が佐伯会長に話す」   凛は蒼介に尋ねた。「何を話すんですか」   「白薔薇の件は誤解だと」   「誤解ではありません」凛は美羽の首元を見た。「その白薔薇は、私の原画から作られています。背面の留め具の内側、本来なら初期番号が刻まれているはずです」   美羽の顔から血の気が引いた。   凛は続けた。「美羽さん、その初期番号は消しましたか?」   美羽は答えなかった。   それだけで、周囲の視線が少し変わった。   蒼介も白薔薇を見た。   初めて、彼の目に迷いが浮かぶ。   その時、凛のスマートフォンに見慣れない番号から着信が入った。   表示された番号を見て、凛は一瞬ためらった。   知らない番号。   けれど、メールを送ったばかりの今なら、用件は一つしかない。   凛は通話を取った。   「はい」   電話の向こうから、落ち着いた女性の声がした。   「R先生でいらっしゃいますか。藤原アートコレクションの宮園と申します」   凛の指が止まった。   R。   神代の名前を使わずに、海外の公募へ出した時の名だった。   蒼介が、かすかに眉をひそめる。   「R……?」   電話の女性は続けた。   「今朝お送りいただいた予備資料を確認しました。当方所蔵の作品と、今夜公開された白薔薇の意匠に一致点がございます」   凛は息を整えた。「確認に、どれくらいかかりますか」   宮園は答えた。「資料だけでは不十分です。実物を拝見する必要があります」   「白薔薇の実物は、今この会場にあります」   「承知しました。ちょうど当主が近くの会合に出ております。許可をいただければ、担当者を向かわせます」宮園はすぐに答えた。   凛は美羽の首にある白薔薇を見た。   あれは、かつて自分が未来と信じていたものだった。   今はただ、返してほしい名前の証拠だった。   「お願いします」   通話を切ると、蒼介が低く尋ねた。   「藤原アートコレクションだと?」   凛は答えなかった。   恭一郎の顔色がさらに悪くなる。   美羽が小さく呟いた。   「お姉さま……そこまでするんですか」   凛は美羽を見た。   「まだ、始めてもいません」

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章一覧

全22章

  1. 第1章チャプター 1 奪われた白薔薇
  2. 第2章チャプター 2 もう娘じゃない
  3. 第3章チャプター 3 九条蓮という男

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