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チャプター 3 九条蓮という男

藤原アートコレクション。   その名前を聞いた途端、九条家の席が静かになった。   最初に動いたのは九条正臣だった。   彼は持っていたグラスをゆっくりテーブルに置き、隣の蒼介へ視線を向けた。   「藤原から連絡が来るとは聞いていないぞ」   「俺も藤原の件は聞いていません」   蒼介の返事は短かった。   けれど、その声はさっきより硬い。   凛の知らないところで、藤原という名は九条家にとって軽く扱えないものらしかった。   神代恭一郎も、それを察したのだろう。   彼は怒りを一度飲み込み、いつもの社交用の顔に戻した。   神代恭一郎は凛へ向き直った。「凛。確認が必要なら後日でいい。今夜は美羽のお披露目の席だ。これ以上、場を乱すべきではない」   凛は言った。「今夜、白薔薇を発表したのは神代家です」   恭一郎が手を出した。「白薔薇の資料は私が預かる。責任を持って対応する」   凛は、その手を見た。   十年間、彼女は何度もこの手に資料を渡してきた。   企画書も、原画も、契約前の修正案も。   戻ってくる時には、内容は残っているのに、彼女の名前だけが消えていた。   「白薔薇の資料は、今日は渡しません」   凛は書類を胸元に寄せた。   恭一郎の表情が一瞬だけ崩れる。   「凛」恭一郎が凛の名を呼んだ。   「今まで預けたものは、戻ってくるたびに私の名前がなくなっていました」凛は恭一郎を見て言った。   近くにいた客の数人が、顔を見合わせた。   美羽は蒼介の後ろに半歩下がり、白薔薇を押さえたまま俯いている。   「私、本当に知らなかったんです……」   小さな声だった。   凛はもう返事をしなかった。   知っていたかどうかではなく、今それを外すかどうか。   凛が見ているのは、そこだけだった。

玄関の方が少し騒がしくなった。   使用人が早足で戻ってくる。   「旦那様、藤原アートコレクションの方がお見えです」   恭一郎はすぐに言った。   「応接室へ通しなさい」   しかし使用人は困ったように、九条正臣の方を見た。   「それが……九条様にもご挨拶を、と」   正臣はわずかに眉を動かした。   数秒の沈黙のあと、彼は短く言った。   「通せ」   恭一郎は何か言いたげだったが、九条家当主の言葉を遮ることはできなかった。   広間の扉が開いた。   黒いスーツの男が入ってくる。   背が高く、姿勢がよかった。   派手な時計も、宝石も身につけていない。   けれど歩いてくるだけで、ざわめきが自然と小さくなっていく。   男の後ろには、薄いファイルを持った女性が続いていた。   さきほど電話をかけてきた宮園という秘書だろう。   男はまず、九条正臣の前で足を止めた。   「お久しぶりです、兄さん」   会場がざわついた。   兄さん。   凛は思わず蒼介を見た。   蒼介は唇を引き結んでいる。   驚きよりも、まずい相手に来られた、という顔だった。   正臣が低い声で言った。   「蓮。こんな席に顔を出すとはな」   「私も予定外です。近くで会合がありまして、秘書から連絡を受けました」   男はそれだけ答え、凛へ視線を移した。   「神代凛さんですね」   「はい」   「藤原蓮です。仕事では母方の姓を使っていますが、戸籍上は九条です」   美羽が小さく息を呑んだ。   九条家の人間。   しかも、蒼介の叔父。   凛は藤原蓮の名前だけなら聞いたことがあった。   九条家の中でも扱いづらい人。   海外の美術品投資とアンティークジュエリーの修復に強く、九条本家の事業にも簡単には従わない。   噂の中の人物が、今、目の前にいる。   蓮は凛に近づきすぎない距離で止まった。   「送っていただいた資料を確認しました。いくつか質問しても?」   凛は頷いた。「お願いします」   「白薔薇の最初の原画はいつ描きましたか」   「十年前です。十八歳の誕生日のあとに」   「会社の業務として?」蓮は続けて尋ねた。   「いいえ。個人のデザインです」   「当時の原画と、制作日を確認できるデータは残っていますか」   「紙の原画はアトリエに保管してあります。制作日が残るスキャンデータと応募記録は、私の手元にもあります」   蓮は小さく頷き、秘書へ目を向けた。   宮園がファイルを開く。   「当方で所蔵しているR名義の作品は、八年前に海外公募へ提出されたものです。白薔薇と同じ蔓の処理、花弁の重ね方が確認できます。正式な鑑定には実物確認が必要です」   恭一郎が口を挟んだ。   「白薔薇は神代家の所有物です。外部の方に勝手に触れさせるわけにはいきません」   蓮は恭一郎を見た。   「それを確認しに来ました」短い返答だった。   恭一郎は言葉を詰まらせる。   蓮は視線を美羽に移した。   「そのネックレスを拝見できますか」   美羽は反射的に一歩下がった。   蒼介が前に出る。「叔父上、今はやめてください」   「理由は?」   「美羽は関係ありません」   「関係のない人が、なぜ問題の品を身につけている」蓮は美羽の首元を見た。   蒼介は答えなかった。   美羽は蒼介の袖を掴んだ。   「蒼介さん……私、外した方がいいですか?」   その声は震えていた。   だが、美羽の手は留め具ではなく、白薔薇の花びらを押さえている。   凛はその指先を見た。   蒼介も白薔薇へ視線を落とす。   凛は静かに言った。   「背面の留め具の内側に、初期番号があるはずです」   美羽の指が止まった。   ほんの一瞬だった。   けれど蓮もそれを見ていた。   「そのまま」   蓮の声で、美羽の動きが止まる。   彼は宮園に言った。   「写真を」   宮園は美羽に近づきすぎない位置から、留め具の部分を撮影した。   美羽の顔色が変わる。   「何を……」   蓮は宮園からスマートフォンを受け取り、画面を拡大した。   凛にも見えるように、少しだけ角度を向ける。   留め具の裏側に、不自然な傷があった。   細い線がいくつも重なっている。   まるで、刻まれていた数字を削ったような跡だった。   蓮が聞いた。   「白薔薇の初期番号は?」   凛は答えた。   「R-18-0427」   宮園がファイルをめくる。   数秒後、彼女は頷いた。   「八年前の応募作品にも、R-18から始まる番号体系があります」   広間に低いざわめきが広がった。   恭一郎はすぐに言った。   「番号体系など、あとから作れます」   蓮は彼を見る。   「では、なぜ消したのですか」   恭一郎は答えなかった。   美羽も、蒼介も黙っていた。   凛は白薔薇を見た。   あれは、十年前の自分が描いた未来だった。   今は削られた番号の跡だけが、その未来の残りかすのように見えた。   蓮は宮園にファイルを閉じさせた。   「本日はここまでにしましょう。正式な鑑定と権利確認は、明日以降、書面で進めます」   恭一郎がすぐに口を開いた。   「それなら、この場はもう——」   「ただし、藤原アートコレクションとしては、確認が終わるまで佐伯家との共同事業を再開しません」   蓮は続けて九条正臣を見た。   「白薔薇は九条家の婚約発表にも使われました。九条家の名を載せた宣伝物についても、いったん止めるべきでしょう」   正臣はしばらく黙り、やがて蒼介へ目を向けた。   「九条家が関わる広告と発表は、権利関係が明らかになるまで保留にする」   神代グループの販売まで、九条家が命じることはできない。だが佐伯家との商談と九条家の後ろ盾を同時に失えば、予定どおりの発表は難しくなる。   正臣の視線が、美羽の首元へ落ちた。   「蒼介。美羽さんから外してもらえ」   美羽が蒼介を見上げる。   「蒼介さん……」   蒼介はすぐには動かなかった。   凛はその顔を見て、視線を外した。   蓮が凛に言った。   「白薔薇関連資料の写しをお預かりできますか」   凛は少し考えて答えた。「原本は渡せません。写しなら」   「構いません」   凛は頷いた。   「お願いします」   その時、蒼介が口を開いた。   「凛」   凛は振り向いた。   蒼介は何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。   凛は待たなかった。   「九条さん、私は帰ります」   「どこへ」   蒼介の声が低くなる。   凛は、さっきまで自分の家だった場所を見回した。   「神代家ではない場所へ」

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全22章

  1. 第1章チャプター 1 奪われた白薔薇
  2. 第2章チャプター 2 もう娘じゃない
  3. 第3章チャプター 3 九条蓮という男

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