/0/18973/coverbig.jpg)
チャプター 3 九条蓮という男
藤原アートコレクション。 その名前を聞いた途端、九条家の席が静かになった。 最初に動いたのは九条正臣だった。 彼は持っていたグラスをゆっくりテーブルに置き、隣の蒼介へ視線を向けた。 「藤原から連絡が来るとは聞いていないぞ」 「俺も藤原の件は聞いていません」 蒼介の返事は短かった。 けれど、その声はさっきより硬い。 凛の知らないところで、藤原という名は九条家にとって軽く扱えないものらしかった。 神代恭一郎も、それを察したのだろう。 彼は怒りを一度飲み込み、いつもの社交用の顔に戻した。 神代恭一郎は凛へ向き直った。「凛。確認が必要なら後日でいい。今夜は美羽のお披露目の席だ。これ以上、場を乱すべきではない」 凛は言った。「今夜、白薔薇を発表したのは神代家です」 恭一郎が手を出した。「白薔薇の資料は私が預かる。責任を持って対応する」 凛は、その手を見た。 十年間、彼女は何度もこの手に資料を渡してきた。 企画書も、原画も、契約前の修正案も。 戻ってくる時には、内容は残っているのに、彼女の名前だけが消えていた。 「白薔薇の資料は、今日は渡しません」 凛は書類を胸元に寄せた。 恭一郎の表情が一瞬だけ崩れる。 「凛」恭一郎が凛の名を呼んだ。 「今まで預けたものは、戻ってくるたびに私の名前がなくなっていました」凛は恭一郎を見て言った。 近くにいた客の数人が、顔を見合わせた。 美羽は蒼介の後ろに半歩下がり、白薔薇を押さえたまま俯いている。 「私、本当に知らなかったんです……」 小さな声だった。 凛はもう返事をしなかった。 知っていたかどうかではなく、今それを外すかどうか。 凛が見ているのは、そこだけだった。
玄関の方が少し騒がしくなった。 使用人が早足で戻ってくる。 「旦那様、藤原アートコレクションの方がお見えです」 恭一郎はすぐに言った。 「応接室へ通しなさい」 しかし使用人は困ったように、九条正臣の方を見た。 「それが……九条様にもご挨拶を、と」 正臣はわずかに眉を動かした。 数秒の沈黙のあと、彼は短く言った。 「通せ」 恭一郎は何か言いたげだったが、九条家当主の言葉を遮ることはできなかった。 広間の扉が開いた。 黒いスーツの男が入ってくる。 背が高く、姿勢がよかった。 派手な時計も、宝石も身につけていない。 けれど歩いてくるだけで、ざわめきが自然と小さくなっていく。 男の後ろには、薄いファイルを持った女性が続いていた。 さきほど電話をかけてきた宮園という秘書だろう。 男はまず、九条正臣の前で足を止めた。 「お久しぶりです、兄さん」 会場がざわついた。 兄さん。 凛は思わず蒼介を見た。 蒼介は唇を引き結んでいる。 驚きよりも、まずい相手に来られた、という顔だった。 正臣が低い声で言った。 「蓮。こんな席に顔を出すとはな」 「私も予定外です。近くで会合がありまして、秘書から連絡を受けました」 男はそれだけ答え、凛へ視線を移した。 「神代凛さんですね」 「はい」 「藤原蓮です。仕事では母方の姓を使っていますが、戸籍上は九条です」 美羽が小さく息を呑んだ。 九条家の人間。 しかも、蒼介の叔父。 凛は藤原蓮の名前だけなら聞いたことがあった。 九条家の中でも扱いづらい人。 海外の美術品投資とアンティークジュエリーの修復に強く、九条本家の事業にも簡単には従わない。 噂の中の人物が、今、目の前にいる。 蓮は凛に近づきすぎない距離で止まった。 「送っていただいた資料を確認しました。いくつか質問しても?」 凛は頷いた。「お願いします」 「白薔薇の最初の原画はいつ描きましたか」 「十年前です。十八歳の誕生日のあとに」 「会社の業務として?」蓮は続けて尋ねた。 「いいえ。個人のデザインです」 「当時の原画と、制作日を確認できるデータは残っていますか」 「紙の原画はアトリエに保管してあります。制作日が残るスキャンデータと応募記録は、私の手元にもあります」 蓮は小さく頷き、秘書へ目を向けた。 宮園がファイルを開く。 「当方で所蔵しているR名義の作品は、八年前に海外公募へ提出されたものです。白薔薇と同じ蔓の処理、花弁の重ね方が確認できます。正式な鑑定には実物確認が必要です」 恭一郎が口を挟んだ。 「白薔薇は神代家の所有物です。外部の方に勝手に触れさせるわけにはいきません」 蓮は恭一郎を見た。 「それを確認しに来ました」短い返答だった。 恭一郎は言葉を詰まらせる。 蓮は視線を美羽に移した。 「そのネックレスを拝見できますか」 美羽は反射的に一歩下がった。 蒼介が前に出る。「叔父上、今はやめてください」 「理由は?」 「美羽は関係ありません」 「関係のない人が、なぜ問題の品を身につけている」蓮は美羽の首元を見た。 蒼介は答えなかった。 美羽は蒼介の袖を掴んだ。 「蒼介さん……私、外した方がいいですか?」 その声は震えていた。 だが、美羽の手は留め具ではなく、白薔薇の花びらを押さえている。 凛はその指先を見た。 蒼介も白薔薇へ視線を落とす。 凛は静かに言った。 「背面の留め具の内側に、初期番号があるはずです」 美羽の指が止まった。 ほんの一瞬だった。 けれど蓮もそれを見ていた。 「そのまま」 蓮の声で、美羽の動きが止まる。 彼は宮園に言った。 「写真を」 宮園は美羽に近づきすぎない位置から、留め具の部分を撮影した。 美羽の顔色が変わる。 「何を……」 蓮は宮園からスマートフォンを受け取り、画面を拡大した。 凛にも見えるように、少しだけ角度を向ける。 留め具の裏側に、不自然な傷があった。 細い線がいくつも重なっている。 まるで、刻まれていた数字を削ったような跡だった。 蓮が聞いた。 「白薔薇の初期番号は?」 凛は答えた。 「R-18-0427」 宮園がファイルをめくる。 数秒後、彼女は頷いた。 「八年前の応募作品にも、R-18から始まる番号体系があります」 広間に低いざわめきが広がった。 恭一郎はすぐに言った。 「番号体系など、あとから作れます」 蓮は彼を見る。 「では、なぜ消したのですか」 恭一郎は答えなかった。 美羽も、蒼介も黙っていた。 凛は白薔薇を見た。 あれは、十年前の自分が描いた未来だった。 今は削られた番号の跡だけが、その未来の残りかすのように見えた。 蓮は宮園にファイルを閉じさせた。 「本日はここまでにしましょう。正式な鑑定と権利確認は、明日以降、書面で進めます」 恭一郎がすぐに口を開いた。 「それなら、この場はもう——」 「ただし、藤原アートコレクションとしては、確認が終わるまで佐伯家との共同事業を再開しません」 蓮は続けて九条正臣を見た。 「白薔薇は九条家の婚約発表にも使われました。九条家の名を載せた宣伝物についても、いったん止めるべきでしょう」 正臣はしばらく黙り、やがて蒼介へ目を向けた。 「九条家が関わる広告と発表は、権利関係が明らかになるまで保留にする」 神代グループの販売まで、九条家が命じることはできない。だが佐伯家との商談と九条家の後ろ盾を同時に失えば、予定どおりの発表は難しくなる。 正臣の視線が、美羽の首元へ落ちた。 「蒼介。美羽さんから外してもらえ」 美羽が蒼介を見上げる。 「蒼介さん……」 蒼介はすぐには動かなかった。 凛はその顔を見て、視線を外した。 蓮が凛に言った。 「白薔薇関連資料の写しをお預かりできますか」 凛は少し考えて答えた。「原本は渡せません。写しなら」 「構いません」 凛は頷いた。 「お願いします」 その時、蒼介が口を開いた。 「凛」 凛は振り向いた。 蒼介は何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。 凛は待たなかった。 「九条さん、私は帰ります」 「どこへ」 蒼介の声が低くなる。 凛は、さっきまで自分の家だった場所を見回した。 「神代家ではない場所へ」
章一覧
全22章
/0/25034/coverbig.jpg)
/0/24334/coverbig.jpg)
/0/23242/coverbig.jpg)
/0/19235/coverbig.jpg)
/0/24592/coverbig.jpg)
/0/21943/coverbig.jpg)
/0/27221/coverbig.jpg)
/0/27166/coverbig.jpg)
/0/27154/coverbig.jpg)
/0/27104/coverbig.jpg)
/0/27150/coverbig.jpg)
/0/27134/coverbig.jpg)