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第2章 家族の裏切りと絶望の淵の覚醒

地下駐車場から地上へ上がった神谷博は、警察署の斜め向かいの路地に停められた、黒塗りの防弾仕様マイバッハの後部座席に身を滑り込ませていた。

わずかに開けられた窓の隙間から、神谷の鋭い眼差しが警察署の正面玄関を捉える。やがて、事情聴取を終えた西畑由枝が、たった一人で玄関から出てくる姿が見えた。

助手席に座る特別秘書の岡本翔が振り返り、声を潜めて報告する。

「社長、遠藤様と西畑暢代様は先ほど保釈されましたが、警察側の記録が決して抹消されないよう手配済みです」

「当然だ」

神谷は短く応じ、本革のシートに深く背を預けた。先ほど由枝の細い腰を受け止めた右手の指先を、記憶を辿るようにゆっくりと擦り合わせる。

白く長い自身の指を見つめる神谷の口元に、微かな笑みが浮かんだ。他の女が間近に寄るだけで吐き気すら催すこの身体が、彼女に触れたときだけは拒絶反応を一片も見せなかった。

それどころか、あの冷え切った華奢な身体を、この腕の中に閉じ込めてしまいたいという衝動すら、胸の奥で静かに渦巻いていた。

警察署の前で、由枝は薄手のジャケットの襟をかき合わせ、通りかかった空車のタクシーを拾って乗り込む。

赤いテールランプが夜の闇へと溶けていくのを見届けると、神谷は冷ややかに告げた。

「車を出せ。MK本社へ戻る。それから、西畑邸の動きから目を離すな」

「かしこまりました」

一方、タクシーの後部座席に深く沈み込んだ由枝は、窓の外を流れる東京のネオンをぼんやりと見つめていた。昂ぶっていた神経が引いていくにつれ、身体は芯まで冷え切り、鉛のように重くなっていく。

数十分後、タクシーは由枝が暮らすマンションの前に滑り込んだ。料金を払い、エレベーターを上がって自室のドアを開ける。

ピンヒールを脱ぎ捨てる間もなく、バッグの中でスマートフォンがけたたましく震え始めた。

画面を取り出すと、そこには『父(西畑弘道)』の文字が表示されていた。由枝がこの三年間、心血を注ぎ続けてきた財閥系企業・安泰グループの現社長であり、実の父親だ。深く息を吸い込み、通話ボタンをタップした。

『西畑由枝! 今すぐ警察署へ戻って被害届を取り下げろ! その足で遠藤家へ向かい、土下座して謝罪してこい!』

受話口から鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声が響き渡り、由枝はスマートフォンを握りしめた。指の関節が白く強張っていく。

「お父さん、先に裏切ったのは遠藤大地よ。あいつ、私が付き添って納車した車の中で暢代と……」

『黙れ! 男が少しばかり火遊びをしたくらいで大騒ぎしおって! 実の婚約者を警察に突き出すなど、明日の朝、安泰グループの株価がどれだけ暴落するか考えもしなかったのか!』

娘を気遣う言葉など、初めから欠片もなかった。胸の奥に冷たい水を一気に流し込まれたように、体温が奪われていく。由枝は下唇を噛み締め、掠れた声で問い返した。

「……じゃあ、暢代はどうなるの? 姉の婚約者を誘惑したことには、何も言わないつもり?」

電話の向こうで、弘道が忌々しげに鼻を鳴らす音が聞こえた。

『暢代は幼い頃から地方で苦労して育ったんだ。お前は姉として、あの子に婚約者の座を譲ってやるくらいの度量も見せられんのか?!』

その言葉を耳にした瞬間、由枝の中で張り詰めていた何かが、音を立てて千切れた。

この父親にとって、長女である自分は会社の利益と妹の幸福のために、いつでも切り捨てていい手駒に過ぎなかったのだ。

沈黙を服従と受け取ったのか、弘道はさらに傲慢な口調を重ねる。

『明日の朝一番で、お前のほうから婚約破棄を申し出たと公表しろ。大地と暢代の仲を祝福するんだ。もし逆らうなら、明日から会社へ来る必要はない。ただちに取締役会を招集し、お前の後継者としての地位を完全に剥奪する!』

一方的に通話が切られ、ツーツーと無機質な電子音だけが静まり返った部屋に虚しく響いた。

由枝はゆっくりと腕を下ろし、吸い寄せられるように洗面所へ向かった。鏡の中には、血の気を失い、疲れ果てた自分の顔が映っている。

幼い頃から継母の鴨田美奈子と父に冷遇され、どれだけ身を削って業績を上げても、一度として認められなかった日々の記憶が脳裏をかすめた。

蛇口をひねり、冷たい水を両手ですくって一気に顔へ浴びせる。

氷のような冷たさが肌を突き刺し、靄のかかっていた思考が急速に研ぎ澄まされていった。

安泰グループは、自分が眠る間も惜しんで育て上げてきた場所だ。あんな底の浅い暢代や、強欲な父の思い通りに奪われてたまるものか。

ペーパータオルで水滴を拭い去ると、由枝の瞳から迷いも悲しみも完全に消え失せていた。そこに宿ったのは、絶対零度の冷徹な決意だった。

リビングへ戻るとバッグからタブレット端末を取り出し、安泰グループの最新の財務諸表と株主構成図を開く。

弘道が後継者の権利を盾に脅してくるのなら、西畑家も遠藤家も二度と逆らえないほどの、圧倒的な後ろ盾を手に入れるしかない。

「お父さんがそこまで暢代を可愛がりたいなら、泥棒猫として遠藤家にでもくれてやればいいわ。あんな汚らわしいゴミ、こっちから願い下げよ」

誰もいない部屋で冷たく言い捨て、由枝はスマートフォンを手に取ると、親友の中森結衣へ発信した。

呼び出し音が三度鳴ったところで、微睡みを含んだ声が返ってくる。

『……由枝? こんな夜中に、どうしたの?』

「結衣、私、遠藤大地と西畑暢代を警察に突き出したわ」

受話口の向こうで息をのむ気配がした直後、完全に覚醒した結衣の弾けた声が響いた。

『よくやった! あのクズ男とぶりっ子女、いつか痛い目を見ればいいと思ってたのよ! 今どこ?! すぐ行くわ!』

由枝は壁の時計に目を向けた。針はすでに午前零時を回っている。

「明日の午前十時、いつもの『L'arc』で会いましょう。あなたの情報網を使って、どうしても調べてほしい人物がいるの」

『了解。総理大臣の隠し子だろうと、根こそぎ暴き出してあげるわ』

通話を終えた由枝は、大きなガラス窓の前に立ち、夜の闇に浮かび上がる東京タワーの光を見つめた。両手の拳を強く握りしめる。

脳裏に蘇るのは、地下駐車場で大地を恐怖の底へと叩き落としていた、あの男の冷徹な佇まいだった。

由枝は静かに目を細めた。もしあの男の権力を手玉に取ることができるなら――西畑弘道の脅しなど、ただの茶番に成り下がる。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全10章

  1. 第1章第1章 車窓の裏切りと冷酷な総帥の降臨
  2. 第2章第2章 家族の裏切りと絶望の淵の覚醒
  3. 第3章第3章 親友の極秘情報と起死回生の策

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