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第3章 暗闇の取引神医の微針
岩のように重い体がのしかかり、背中を濡れた岩肌に打ちつけられた。折れた肋骨が軋む。 莉泉は奥歯を噛みしめ、桜庭竜一の体を押しのけた。泥水に転がった竜一は、毒素のせいで全身を痙攣させている。 懐中電灯の光が岩場を照らした。防弾ベストの男たちが駆け寄ってくる。先頭の黒田隼人は、地面に倒れた主を見て顔色を変えた。 「社長!」 次の瞬間、黒田は拳銃を抜き、立ち上がった莉泉の眉間に銃口を突きつけた。 「動くな。貴様、何者だ」 莉泉はまばたきもしなかった。服についた泥を払いながら、平坦な声で言った。 「この人の命を救える人間よ」 ずぶ濡れで、太って、顔中に擦り傷を作った女。黒田の目に、疑念と侮蔑が浮かぶ。 「お前に何ができる。両手を頭の後ろに組んで、しゃがめ」 その瞬間、竜一がどす黒い血を吐いた。壊れたふいごのような呼吸。命が、目に見える速さで漏れていく。 莉泉は足元の竜一を見下ろして言った。 「毒は中枢神経まで達している。あと一分。あなたが引き金を引けば、この人も道連れよ」 黒田の手がわずかに震えた。苦悶に歪む主と、銃口の前で顔色ひとつ変えない女を見比べる。 「社長……」 竜一が重いまぶたを押し上げた。霞む視界の中で、莉泉の目だけを正確に捉える。泥にまみれた竜一の指先が、少しだけ動いた。 「……下がれ」 莉泉は歩み寄り、竜一の横に膝をついた。 「取引よ。私が毒を消す代わりに、医療キットと安全な隠れ場所をちょうだい」 竜一は答えなかった。ただ、じっと見つめてくる。莉泉はそれを黙認と受け取って、処置に移った。 黒田たちの視線を背中で遮りながら、システムから解毒血清の入った超小型注射器を取り出す。 気づいた黒田が前に出た。 「おい、何をする。妙な真似は――」 「黙って。彼を殺したくないなら、邪魔しないで」 振り返りもせずに一喝した。その気迫に呑まれて、黒田は足を止めた。 莉泉は竜一の首筋の静脈を探り当てて血清を入れ、指先に挟んだ三本の銀針を胸のツボへ打ち込む。 針が刺さった瞬間、竜一の喉からうめきが漏れた。直後、板のように硬直していた筋肉が、ふっと緩んだ。 黒田は目を見張った。社長が盛られたのは、医療チームが匙を投げた劇毒のはずだ。それを、この女が数本の針で。 莉泉は額に汗を浮かべながら、銀針の柄を細かく回転させ、微弱な振動で血清を全身へ回していく。 青黒かった竜一の顔色が白さを取り戻し、乱れた呼吸が整っていく。 意識を取り戻しつつある竜一の目が、すぐ近くにある莉泉の横顔に注がれていた。傷だらけで、むくんでいる。それでも、処置に没頭するその瞳から、目が離せなくなる。 最後の銀針を抜いた莉泉は、大きく息を吐いて黒田を振り返った。 「医療キットを頂戴」 圧倒された黒田は、慌てて救急バッグを差し出した。 莉泉はそれを受け取ると、折れた肋骨と腕の擦り傷を手際よく処置した。 黒田に肩を支えられて上半身を起こした竜一が、低い声で尋ねた。 「名前は」 莉泉は包帯の端を歯で噛んで引き締め、痛みに小さく息をのみながら、顔も上げずに答えた。 「たまたま居合わせただけの他人よ。名乗る必要はないわ」 竜一の目に、わずかに興味の色が宿った。彼は自分の黒いジャケットを脱ぐと、止めようとする黒田を無視して、寒さで震えている莉泉の肩へかけた。 「俺は桜庭竜一だ。受けた恩は返す。上着はその証として持っておけ」 男の体温と、沈香の香りが、冷えきった体を包んだ。 莉泉は拒まなかった。低体温症になりかけていた体に、その温もりは必要だった。 しかし、立ち上がろうとした瞬間、激しいめまいが襲った。 システムの緊急修復と、限界を超えた集中が、この脆い肉体のエネルギーを使い果たしていた。視界が黒く染まり、莉泉の体は前へ傾いた。 竜一が長い腕を伸ばし、胸元で受け止めた。眉間が険しく寄る。 「おい。目を覚ませ」 ちょうどそのとき、崖の上へ続く道から怒鳴り声と、無数の懐中電灯の光が迫ってきた。 莉泉は、重いまぶたの奥でその光を数えた。 直也の捜索隊が、この岩場まで来たのだ。
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