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第2章 深淵の底天才神医の覚醒

「冷たい」 海水が鼻腔に流れ込んだ。 莉泉の指が、ぴくりと動いた。止まっていたはずの心臓が、不格好な音を立てて動き出す。 次の瞬間、異質な記憶の塊が、壊れかけた肉体へ雪崩れ込んだ。 莉泉は目を開けた。 「げほっ、ごほっ……!」 血の混じった海水を吐き出して、肺が焼けるように痛んだ。肋骨が三本、折れている。彼女は即座にそう判断した。 波に打ち上げられたのか、体は浅い岩場に乗り上げていた。 「……最悪のコンディションね」 こめかみを押さえると、この体の持ち主、小堀莉泉の記憶が濁流のように流れ込んできた。 義妹に毒を盛られて太らされ、婚約者に辱められ、家族に見捨てられて、崖から落ちた女。 莉泉の唇が動いた。 「あなたの体を借りた以上、この恨みは私が晴らす」 脳の奥で電子音が鳴り、網膜の上に淡い青のパネルが展開された。 超空間薬理分析システム。このシステムは、前世で研究に人生を捧げた自分が作り上げたものだ。魂についてきたらしい。 画面には、極めて危険なバイタルサインが並んでいる。 莉泉は迷わず、局所麻酔と痛覚遮断を命じた。 虚空から、毛ほどに細い微針が指先に現れる。首筋の神経節へ刺すと、全身の痛みが潮のように引いた。 内臓の損傷を調べようとしたとき、研ぎ澄まされた聴覚が、少し先の岩陰の息遣いを捉えた。押し殺した、荒い呼吸。 莉泉は動きを止めた。システムから麻痺毒を塗った銀針を取り出し、掌に忍ばせて気配を消すと、近づいた。 巨岩を回り込んだ先に、黒いシャツの男が血だまりの中に倒れていた。 意識はない。それでも全身から、肌が粟立つほどの圧力が漂っている。 雨に濡れた黒髪が額に張りついている。長く、骨太な指。ただ者ではない。 世界の経済を裏で動かす桜庭グループの社長、桜庭竜一。 莉泉は男の傍らに膝をつき、頸動脈に指を当てた。肌は異常に熱く、脈は今にも途切れそうだ。血の匂いに混じって、アーモンドのような臭いがした。 「複合型の神経毒ね」 脳内に、毒物分析のレポートが弾き出される。 手を引こうとした、そのときだった。 昏睡していたはずの男が身を起こし、莉泉の喉を締め上げた。 開いた瞳に、飢えた獣の殺意が渦巻いている。掠れた声が、鼓膜を震わせた。 「……誰の差し金だ」 顎を押し上げられ、息が詰まる。莉泉は動じなかった。掌の銀針を、男の頸動脈へ突きつけた。 「三分後に毒で死にたいなら、このまま絞めていればいいわ」 男の眼光が険しくなった。それでも、首を締める手は緩まない。 莉泉は男を見上げたまま、考えた。この男は、小堀家と豊増家を潰せる男だ。 逃げるより、使う。 そのとき、崖の上へ続く獣道から、足音と懐中電灯の光が迫ってきた。 「社長! どこにおられますか」 若い男の声が、風雨を裂いた。 男の目から、わずかに殺意が引いた。次の瞬間、体内の毒素が暴発したらしい。低いうめき声を漏らし、莉泉の上へ倒れ込んできた。 重い。 暗闇の中で、莉泉は男の体を受け止めたまま、懐中電灯の光を数えた。四つ。いや、五つ。 「……面倒なことになったわね」