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第1章
「…………」っ 割れるような頭痛で、井上真結の意識が浮上した。 最後に覚えているのは、婚約者である古俣拓海の母、明子に勧められるまま口にした、ワインのやけに甘ったるい後味。 自分が寝かされているのは、見慣れた客間ではなかった。 指先に触れるシーツは滑らかなシルクで、真結が人生で一度も触れたことのない高級品だとすぐにわかった。 部屋に漂うのは、知らない男性ものの白檀の香水。 その香りに、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 隣に、人の気配がする。 真結は恐る恐る、硬直した首をそちらに向けた。 夜明け前の薄闇の中、たくましい腕が自分の腰にしっかりと回されているのが見えて、息を呑んだ。 すぐ耳元で、穏やかな男の寝息が聞こえる。 パニックで、体が凍りついた。 静かに、この腕を振りほどかなければ。 そう思うのに、男の腕は岩のように固く、びくともしない。 真結が身じろぎしたことに気づいたのか、男がゆっくりと目を開けた。 暗闇の中で、二人の視線が絡み合う。 恐怖が頂点に達した。 男は何も言わず、ただ冷徹な瞳で真結を見つめている。 「あなたは……誰……?」 真結が絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。 男は答えない。 それどころか、面白がるかのように口の端をわずかに上げた。 その表情に恐怖を煽られ、真結は必死でベッドから逃げようともがいた。 だが、その体はたくましい腕でいとも簡単に押さえつけられてしまう。 圧倒的な力の差に、絶望感が胃の腑からせり上がってくる。 「明子さんに、頼まれたのか?」 低い声が、初めて静寂を破った。 その声に含まれた冷ややかな響きが、真結の恐怖をさらに深くする。 明子の名前。 その一言で、全てがあの人の策略だったのだと悟り、顔から血の気が引いた。 男は真結の反応を見て、全てを理解したように静かに頷いた。 そして、ゆっくりと真結の髪を撫でる。 その予測不能な仕草に、真結は恐怖でびくりと身を竦ませた。 「騒ぐな。騒げば、お前の立場がなくなるだけだ」 男は冷ややかに告げる。 その言葉は、紛れもない事実だった。婚約を控えた女が、知らない男と同じベッドにいた。それだけで、全て真結の責任にされるだろう。 婚約者である拓海の顔が脳裏に浮かび、絶望で視界が滲む。 ぽろりと零れた涙を、男が冷たい指先で拭った。 その感触に、真結の体はまた震えた。 窓の外が白み始め、男の顔の輪郭が少しずつ明らかになっていく。 彫りの深い端正な顔立ち。だが、その瞳は氷のように冷酷だった。 これが夢ではないという現実を突きつけられ、真結は抵抗する気力さえ失い始めていた。 男は真結の顎に手をかけ、無理やり顔を上向かせた。 その瞳の奥に宿る、獲物を前にしたかのような征服欲に、真結の心は完全に折られた。 「これは罰だ。君と、君を選んだ者たちへのな」 男が意味深な言葉を囁く。 何のことか理解できず、真結はただ混乱した目で彼を見つめることしかできない。 男の指が、真結が着ていたパジャマの肩紐にかかった。 「やめて!」 最後の力を振り絞って叫んだ声は、布が擦れる音にかき消された。 男は抵抗を無視し、有無を言わさぬ力で彼女を組み敷く。 「……少し力を抜けよ」 「……随分と強張ってるな」 男は低い声でそう呟き、大きな手で彼女の手をしっかりと掴んだ。 「……優しくなんて、できそうにない」 不意に見せたその強引さに、彼女の体は震えた。 熱い――。 背後にいる男の顔ははっきりとは見えず、ただその輪郭だけがぼんやりと浮かび上がって見える。 鋭く整った骨格――野性的で男らしい、精悍な顔立ち。 高く通った鼻筋……。 大きな手、逞しい指の節……。その圧倒的な存在感に抗えず、彼女は潤んだ瞳に涙を溜めながら、小さく声を漏らした。 「……いつ、終わるの?」 その声はとろけるように甘く、抗いがたいほどに艶っぽく響いた。 その声に、古俣大和(ふるまた やまと)の瞳が暗く色めく。血管の浮き出た大きな手が彼女の腰へと移り、強く抱き寄せた。彼の吐息がかかり、赤い唇が彼の唇で塞がれる。彼女は、むき出しの男らしさが放つ、強烈で息が詰まるような熱気にすっぽりと包み込まれていった。 真結は固く目を閉じた。 長い夜が、今始まろうとしていた。
章一覧
全70章
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