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「私は地下鉄で向かいますので、神崎社長はお先にお車へどうぞ」

南青山の車庫の前。薄いグレーのカシミアトレンチコートのボタンを一番上まで留めた白石琴音は、カメラバッグのストラップを肩に掛け直し、冷淡に言い放った。

神崎尊はマイバッハのドアノブに手をかけたまま、信じられないものを見るような目を琴音に向けた。

「……何と言った?」

「聞こえませんでしたか? 神崎社長」

琴音は一歩下がり、完璧な会釈の姿勢を取った。

「三年前の取り決め通り、対外的には私は神崎家に引き取られた『義理の妹』であり、社内ではビジュアル統括ディレクターという一社員にすぎません。社長の専用車に毎朝同乗するなど、社内規律の観点からも不適切です」

車庫の冷気が、二人の間に張り詰める。

尊の左腕がわずかに動き、腕時計のベゼルを苛立たしげに回した。

「琴音、昨夜の協議書の件で意地を張っているのか? 言ったはずだ。離婚後も神崎家の人間としての生活水準は保証すると。お前が不自由な思いをすることはない」

「保証、ですか」

琴音の口元に、乾いた笑みが浮かんだ。

ポケットの中で、スマートフォンが短い通知音を立てていた。今朝早く、尊の親友である西崎翔太がSNSに投稿した写真の通知だった。

銀座の会員制ラウンジ。中央で涙ぐむ星野愛莉の肩を、尊が優しく抱き寄せている写真。

「十年間待ち続けた俺たちの真のヒロインが帰ってきた。席を譲るべき人間は弁えて身を引くべきだな」

西崎の露骨な煽り文句と、それに賛同するセレブ仲間たちのコメントが連なっていた。

その写真を思い出すたび、琴音の指先は冷たく強張る。

「施しを受ける筋合いはありません。私は自分の足で通勤し、自分の仕事で給与を得ています。失礼します」

踵を返そうとした琴音の手首を、尊の大きな手が背後から掴んだ。

骨がきしむほどの強い力。尊の漆黒の瞳には、明らかな怒りと支配欲の炎が揺らめいていた。

「白石琴音。勝手な真似は許さん。誰の金でこれまで――」

「離してください」

琴音は振り返り、その目をまっすぐに見据えた。

その瞳には、かつて尊に向けられていたかすかな怯えも、縋るような熱も存在しなかった。ただ底知れない静寂と、完全なる拒絶の色だけが広がっていた。

尊は息をのみ、思わず指の力を緩めてしまった。

琴音はその隙を見逃さず、手首を引いて拘束を解いた。乱れた袖口を整え、一度も振り返ることなく私道の坂を下っていく。

「……チッ」

尊は苛立ちを隠そうともせず、マイバッハのドアを乱暴に開けて乗り込んだ。

「出せ!」

運転手は青ざめながらアクセルを踏み込んだ。

千代田線の通勤ラッシュは、琴音の体力を容赦なく削り取っていった。

吊り革に掴まりながら、押し寄せる人の波に耐える。車内の脂っこい汗と香水が混ざり合った空気に、再び激しい悪阻が襲いかかった。

(お願い……もう少しだけ耐えて)

琴音はマスクの下で歯を食いしばり、下腹部に当てた手に力を込めた。冷や汗が額を伝い、視界が白く明滅する。

大手町駅の改札を抜けたのは、始業十分前だった。

エレベーターで神崎グループ本社の最上階フロアへと上がる。企画デザイン部のフロアに足を踏み入れた瞬間、ざわついていた社員たちの視線が一斉に琴音へと突き刺さった。

大画面のサイネージには、朝の芸能ニュースが流れていた。

『神崎グループ、帰国した世界的女優・星野愛莉の復帰プロジェクトに巨額投資を発表!』

フロアの奥、広報部長のデスクから高いヒールの音を響かせて、松本紀子が歩み寄ってきた。派手なメイクで固めた顔に、侮蔑と嘲笑を貼り付けている。

「おはよう、白石ディレクター。随分と呑気に電車通勤だそうじゃない?」

松本は手元にあった分厚いファイルを、琴音のデスクの上に叩きつけるように置いた。

「これ、社長からの直々の指示よ。これまで進めていた桐谷麗奈ちゃんの専属契約は白紙撤回。すべて星野愛莉様仕様に、企画を全面的に作り直しなさいって」

周囲の社員たちが息を潜め、興味津々にこちらを窺っている。

琴音はファイルを開くこともなく、松本を冷ややかに見返した。

「桐谷麗奈さんとの契約は、法務部の最終承認を経てすでに締結済みです。一方的な契約解除には数千万円の違約金が発生しますが、その承認は取れているのですか?」

「はあ? 何言ってるのよ」

松本は鼻で笑い、腕を組んだ。

「愛莉様は社長の命の恩人であり、神崎グループの真の顔になるお方よ。違約金なんて社長のポケットマネーでどうとでもなるわ。居候のあなたが口を出すことじゃないの」

琴音は静かに深呼吸をし、デスクの上のパソコンを立ち上げた。

「わかりました。業務指示であるならば、法的なリスクも含めて書面で提出してください。口頭での指示には従えません」

「なっ……!」

松本が顔を真っ赤にして詰め寄ろうとしたその時、フロアのエントランスの自動ドアが開き、取り巻きを引き連れた星野愛莉が姿を現した。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  2. 第2章第2章
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