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リビングのフットライトが、足元をぼんやりと照らし出していた。

神崎尊は片手でネクタイの結び目を緩め、靴を脱ぎ捨ててリビングへと足を踏み入れた。その足取りには、かすかなアルコールの重さが滲んでいる。

奥のキッチンスペースから、長年神崎家に仕えている初老の家政婦が、心配そうにお盆を抱えて小走りで現れた。

「旦那様、おかえりなさいませ。奥様が夕方からずっとお待ちで……お夕食にも手をつけていらっしゃいません」

「結構だ。下がってくれ」

尊は冷たく言い放ち、着ていたジャケットを無造作にソファの背もたれへと放り投げた。

「琴音、冷たい水を頼む」

ソファの隙間に診断書を滑り込ませ、琴音は静かに立ち上がった。キッチンのアイランドカウンターへ向かい、ガラスのグラスに氷とウォーターサーバーの冷水を注ぐ。

指先は氷のように冷たかったが、それを顔に出すことはなかった。

「どうぞ」

差し出されたグラスを受け取ると、尊は喉を鳴らしながら一気に飲み干した。零れた冷たい水滴が、鋭い喉仏を伝って落ちていく。

グラスを大理石のテーブルへ置くと、尊はビジネスバッグのファスナーを開け、一通の厚みのある茶封筒を取り出した。

テーブルの上に投げ出された封筒が、乾いた音を立てる。

封筒の表には、印字された文字が並んでいた。

「協議離婚合意書兼資産分与目録」

琴音の視線がその文字に吸い寄せられたまま、動かなくなった。掌に爪が深く食い込み、鈍い痛みが走る。

「……これは?」

「見ての通りだ」

尊はソファに深く背を預け、長い足を組んだ。その表情には、商談を冷徹に成立させるときと同じ冷淡さしかなかった。

「サインをしてくれ。三年前、区役所に婚姻届を提出したときにも話したはずだ。これは互いの家格と事業を維持するための、期限付きの形だけの婚姻関係だったと」

琴音の喉の奥が、張り付いたように乾いた。

「形だけの……。じゃあ、三年経ったから契約満了ということですか」

「愛莉が帰国した」

尊は視線を窓の外、手入れされた日本庭園の夜景へと向けた。

「十年前、俺の身代わりとなって巻き込まれた事件で、彼女は心身ともに深い傷を負った。その責任は俺にある。彼女の人生を、俺が責任を持って引き受ける番だ」

琴音の胸を、鋭い痛みが貫いた。

十年前、まだ学生だった尊が直面した誘拐未遂事件。その場に居合わせ、尊を庇って負傷したとされるのが、当時駆け出しのモデルだった星野愛莉だった。

尊にとって愛莉は聖域であり、絶対に汚してはならない負い目そのものだったのだ。

「世田谷の戸建て住宅は君の名義に変更する。それと、現金で五億円を用立てる手はずになっている」

尊は内ポケットから万年筆を取り出し、キャップを外してテーブルの中央へ滑らせた。

「白石家の借入金は、神崎グループがすべて清算済みだ。君がこれからの生活に困ることはない。十分な配慮はしたつもりだ」

五億円という数字と豪邸。三年間の夫婦の営み、そして十年間秘め続けてきた琴音の想いは、整然と並べられた数字によって値踏みされていた。

「もし……私がこのサインを拒否したら?」

尊の眉が不快そうに歪み、鋭い視線が琴音を射抜いた。

「無意味な抵抗はやめろ、琴音。君に拒否する権利はない。白石の看板を今日まで守ってこられたのが誰の力か、理解しているはずだ」

亡き父が遺した会社の破綻。その負債を肩代わりしてもらった恩義が、今、最も鋭い刃となって琴音の喉元に突きつけられている。

琴音は胃の底からせり上がる吐き気を必死に抑え込みながら、無意識に左手を下腹部へと当てた。

尊はその仕草を目ざとく捉え、さらに眉をひそめた。

「また胃か? 明日の朝、主治医に薬を届けさせる」

「結構です」

琴音は顔を上げ、静かに告げた。

「ただの冷えですから。書類は確認しました。でも、今夜はサインしません」

尊は苛立ちを露わにして立ち上がり、琴音を見下ろした。

「来週の月曜日、愛莉の復帰会見を神崎グループ主催で大々的に執り行う。それまでに法的な整理をすべて終わらせておきたい。あまり俺の手を煩わせるな」

言い残すと、尊は振り返ることもなく客間へと続く階段を上がっていった。寝室のドアが乱暴に閉ざされる重い音が、広すぎるリビングに虚しく響き渡る。

静寂が戻った部屋で、琴音はソファの隙間から、くしゃくしゃになった妊娠診断書をゆっくりと引き出した。

白黒の文字で刻まれた『妊娠4週』。

それは、彼女が必死に守りたかった家庭の証であるはずだった。

琴音はサイドボードから真鍮のライターを取り出すと、暖炉の前へ膝をついた。

カチリ。

揺らめく青い炎が紙の端を捉える。

パチパチと音を立てながら文字が黒い灰へと変わり、冷たい鉄格子の底へと落ちていく。

頬を一筋の涙が伝い落ちたが、琴音はそれを指先で乱暴に拭い去った。その瞳から、三年間の怯えと未練が炎の熱とともに急速に消え失せていく。

スマートフォンを取り出し、深夜の通話履歴を開いた。発信先は、数少ない心を許せる親友であり、敏腕PRプランナーとして独立している藤岡一穂だった。

コール音が三回鳴り、相手が出た。

『もしもし、琴音? こんな時間に珍しいじゃない。何かあった?』

「一穂……夜分に急にごめんなさい」

琴音は喉の震えを抑え、はっきりと告げた。

「私、近いうちに神崎家を出る。海外でのフリーカメラマンとしての活動手続きと、個人事務所の立ち上げについて相談に乗ってほしいの」

受話器の向こうで、息をのむ気配がした。

『……本気なのね?』

「ええ。本気よ」

通話を終えた琴音は、主寝室へと戻った。クローゼットからスーツケースを引き出し、自らが購入した仕事道具と私服だけを手際よく詰め込んでいく。

左手の薬指には、二人が区役所に届を出した日に尊から渡された、何の飾り気もないプラチナの結婚指輪が嵌められていた。琴音はそれを指から引き抜き、ベッドサイドの写真立ての前に伏せるようにして置いた。

東の空が白み始めた頃、寝室のドアがノックされた。

着替えを済ませ、完璧なネイビースーツを身に纏った尊が、何事もなかったかのような無表情で立っていた。

「仕度をしろ。今日は朝会から役員会議だ。本社の車に同乗していくぞ」

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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