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第3章
琴梨が尚志の名を口にした瞬間、会場の喧騒はそれまでの十倍にも膨れ上がった。 何人かの記者は、フラッシュを焚くことさえ忘れ、呆然と舞台上の彼女を見つめている。 「おい、聞いたか?」「息子の代わりに父親を…」「前代未聞のスキャンダルだ!」 指名された福山尚志本人も、一瞬、虚を突かれたように固まっていた。 彼は舞台の上で、自分をまっすぐに見つめる、あの強い瞳を持つ若い娘を見た。 初めて、事態が自分のコントロールを完全に超えたことを感じた。 福山静江の顔は、これ以上ないほど険しくなっていた。 杖を握る彼女の手は、怒りではなく、純粋な驚愕によって震えている。 「……気でも狂ったか!」 静江が絞り出すように言った。 「あの方が誰だか、わかっているのか!修明の父親なのだぞ!」 綾子は、天文学的なジョークでも聞いたかのように、甲高い笑い声を上げた。 だが、静江の厳しい視線に気づき、慌てて口をつぐむ。 しかし、その表情には依然として嘲りの色が満ちていた。 琴梨は、周囲の全ての反応を意に介さなかった。 彼女は静かに答える。 「修明様のお父上だからこそでございます」 「この責任を取るに、最も相応しいお方かと」 彼女は舞台を降りた。 そして、一歩、また一歩と、尚志の席へと向かって歩き出す。 カツカツと響くヒールの音が、まるで、その場にいる全員の心臓を打っているかのようだ。 琴梨は尚志の目の前で立ち止まり、深く、しかし堂々と身をかがめた。 「古来より、『子の債は親が償う』と申しますならば、その逆もまた、道理に叶っているのではないでしょうか」 その言葉は、むちゃくちゃな詭弁だった。 だが、この異常な状況下においては、奇妙な説得力を持って響いた。 「福山修明様は、私の名誉を汚し、福山家の暖簾に泥を塗りました。この落とし前は、どなたかがおつけにならねばなりません」 彼女の視線が、ちらりと記者席に向けられる。 「さもなくば、明日の日本の新聞の一面は、こう飾られることでしょう?『福山グループ跡取り、婚約者を捨てて愛人と逃避行。百年続いた名家の信用、地に堕つ』と」 それは剥き出しの脅迫だった。 そして、この上なく効果的な一手だった。 尚志は目の前の娘を、初めて正視した。 自分の息子の嫁になるはずだった、この若い娘を。彼女の瞳には、恋する乙女の甘さは微塵もない。あるのは、冷静な計算と、崖っぷちに立たされた者だけが持つ、凄絶な覚悟だけだ。 琴梨はふっと表情を和らげた。 「それに、私の目から見れば、福山会長は、真に責任感の強い、魅力的な男性でいらっしゃいます。そのような方の妻となれることは、私にとって屈辱などではございませんむしろ、光栄なことでございます」 その言葉は、尚志に用意された見事な逃げ道であり、成熟した男の自尊心をくすぐる、甘い響きを持っていた。 尚志の口元が、ほんのわずかに動いた。 彼はこの状況が、少しずつ面白くなってきたと感じ始めていた。 隣で聞いていた静江の心の中で、天秤が激しく揺れ動いていた。 片方には、息子の嫁に求婚されるという、前代未聞の醜聞。 もう片方には、別の可能性がある。 尚志は四十に近いというのに、いまだに結婚せず、独り身を貫いている。そのため、血筋を絶やさないようにと、傍系から子供を迎え入れた——すなわち修明である。それは、静江の長年の心痛の種だった。 もし、ここで、尚志が琴梨を娶れば、修明の起こしたスキャンダルは、「父親が息子の代わりに花嫁を迎える」という、さらに衝撃的なニュースによって上書きされる。 福山家の体面は、最悪の形ではなく、奇妙な形で保たれるかもしれない。 そして、尚志の結婚問題も片付く。 この娘は確かに計算高い。だが、それ以上に賢く、度胸がある。福山家の女主人になる器としては、あるいは…。 静江の目から驚愕の色が消え、決断の光が宿った。 彼女は二人の間に進み出て、息子に問うた。 「尚志あなたの考えは?」 尚志は琴梨を見つめた。 彼の声は低く、そして磁力を帯びていた。 「後悔しないか?私と結婚すれば、お前は、修明の母親になるのだぞ」 「はい覚悟の上です」 琴梨は一瞬の迷いもなく答えた。 「良き『母親』になりますわ」 彼女は「母親」という言葉に、特別な響きを込めた。 尚志の目に、一瞬、笑いの色が浮かんだ。 彼はすっくと立ち上がった。 その長身は、琴梨に威圧感を与えるのに十分だった。 彼は琴梨に向かって、すっと右手を差し出した。 「ならば、関本さんいや、琴梨ようこそ私の妻に」 琴梨は、その大きく節くれだった手の中に、自分の手を滑り込ませた。 契約は成立した。 それを見ていた静江が、すぐに司会者の中村恵美に命じた。 「結婚の儀を続けます!新郎は福山尚志に変更!」 中村恵美は、顎が外れるほど驚きながらも、プロとして即座に反応した。 こうして、全ての招待客とメディアが見守る中、本来なら息子のものだったはずの結婚式は、劇的に父親の結婚式へと姿を変えた。 琴梨は尚志と並んで立ち、人々の複雑な祝福を浴びる。 彼女は知っていた。 この瞬間から、自分の運命は根底から書き換えられたのだと。 もはや、自分は関本琴梨ではない。 福山夫人なのだと。
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