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第1章
「時間ですわ」 司会を務める中村恵美の声が、わずかに震えていた。 彼女の視線の先、帝国ホテルの豪奢な宴会場『富士の間』の入り口は、静まり返っている。 主役であるはずの新郎、福山修明の姿は、まだない。 控室の鏡の前で、関本琴梨は静かに座っていた。 数百万円はするであろう白無垢の重みが、ずっしりと肩にのしかかる。 侍女の冬月楓と秋山凛が、心配そうな顔で彼女の襟元を直している。 「お嬢様……」 秋山の声は不安に揺れていた。 琴梨は何も言わず、ただまっすぐに前を見つめている。 会場のざわめきが、控室の厚い扉を越えて、波のように押し寄せてくる。 最初は祝福と期待に満ちていた囁き声が、今は好奇と嘲笑の入り混じった憶測に変わっていた。 琴梨の耳には、全てが届いている。 「まだいらっしゃらないの?修明様」 福山家の分家筋にあたる綾子の、わざとらしい声が聞こえる。 彼女の隣にいる奈緒が、くすくすと笑いをこらえる気配。 彼女たちの目には、琴梨に対する侮蔑と、人の不幸を喜ぶ色が、隠しようもなく浮かんでいた。 福山家の当主、福山尚志は、腕を組んだまま表情一つ変えずに舞台を見つめている。 だが、その隣に座る大奥様、福山静江の顔は、能面のように固まっていた。 彼女が怒りを抑制していることは、誰の目にも明らかだった。 琴梨自身の家族、父と継母に至っては、代理人を寄越しただけで、この場に姿さえ見せていない。 それは、関本家がこの結婚を、そして琴梨自身を、どれほど軽んじているかの証だった。 予定時刻を十五分が過ぎた。 中村恵美が再びマイクの前に立ち、必死にジョークで場を繋ごうとするが、会場の空気は冷え切っていくばかりだ。 やがて、しびれを切らした一人の記者が手を挙げた。 「修明様は、何かトラブルにでも遭われたのでしょうか?」 その一言が、張り詰めていた糸を断ち切った。 会場の全ての視線が、福山家の席に突き刺さる。 その時、初めて福山尚志の眉が、ぴくりと動いた。 彼の冷徹な視線が、会場を薙ぐ。 もう限界だった。 琴梨はすっと立ち上がった。 「お嬢様!」 楓が止めようとするのを、手で制する。 彼女は控室の扉を開け、光と無数の視線が渦巻く宴会場へと、一人で歩き出した。 琴梨の登場に、一瞬、会場のざわめきが収まる。 同情、好奇、嘲笑、値踏みするような目。 その全てを、彼女はまっすぐな背中で受け止めた。 綾子が奈緒に囁くのが聞こえた。 「あら、関本のお嬢様も、大したことないのね自分の男一人、繋ぎ止められないなんて」 その言葉に、琴梨の足がほんの一瞬止まる。 だが、彼女はすぐに歩き出した。 むしろ、先ほどよりも背筋が伸びている。 彼女が舞台の階段に足をかけようとした、その時だった。 修明の秘書が、血相を変えて会場に駆け込んできた。 彼は招待客をかき分けるようにして、福山尚志の元へ走り寄る。 そして、主人の耳に何かを囁いた。 秘書の顔は紙のように白い。 次の瞬間、尚志の顔色が鉄のように変わった。 椅子の肘掛けを握る指の関節が、白く浮き上がる。 「どうしたのです」 静江が低い声で問うた。 秘書は震える手で、一通の封筒を差し出した。 修明の筆跡だった。 静江がひったくるように手紙を読み、その体がわなわなと震え始めた。 「……あの馬鹿者がっ!」 絞り出すような声は、怒りに満ちていた。 琴梨は手紙を見る必要はなかった。 会場の空気、福山家の者たちの表情、その全てが答えを物語っていた。 彼は来ない。 私を、この場で、全東京の名士たちの前で、見捨てたのだ。 胃の腑が氷のように冷えていく。 指先から血の気が引いていくのがわかった。 だが、琴梨の顔は奇妙なほど穏やかだった。 彼女はゆっくりと階段を上り、言葉を失った中村恵美の手からマイクを受け取った。 会場は、水を打ったように静まり返っている。 全てのカメラのレンズが、彼女一人に向けられていた。 琴梨は深く息を吸った。 そして、ゆっくりと頭から綿帽子を外した。 「あっ!」 誰かが息を呑む声がした。 伝統的な婚礼の儀式において、それはありえない、極めて無作法な行為だった。 彼女は外した綿帽子を、まるで大切な宝物のように、そっと演台の上に置いた。 その仕草は、悲劇のヒロインには似つかわしくないほど優雅で、そして決然としていた。 「どうやら、私の婚約者は、本日ここへは来られないようです」 彼女の声は、マイクを通してホールの隅々までクリアに響き渡った。 何の感情も乗らない、平坦な声だった。 琴梨は嘲るような笑みを口元に浮かべた。 「であるならば、私、関本琴梨と福山修明様との婚約は、これにて解消いたします」 会場が蜂の巣をつついたように騒がしくなる。 福山家の者たちの顔が、怒りと屈辱に歪んだ。 だが、琴梨は構わず続けた。 彼女は福山静江の目を、まっすぐに見据えた。 そして、声を一段高くした。 「しかし、私、関本琴梨は、今日この福山家の門をくぐったからには、必ず福山家の花嫁となります」 「福山家の未婚の男性の中から、私のために新しい夫をお選びいただきたい!」
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