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第2章 偏愛の凶刃と決別の誓い
「修也お兄ちゃん、私はただお悔やみに来ただけなのに。泉美さんがいきなり手を上げてきて……」 奈津子は修也の袖をつかみ、その広い背に身を隠しながら涙声を絞り出した。 雨に濡れた修也の肩から、冷たい水がぽたぽたと床に落ちる。 泉美は半歩よろめき、祭壇の縁に手をついて体勢を支えた。掴まれた手首に赤い痕が残り、火傷のようにひりついている。 「修也。医師の所見も近所の証言も揃っているのよ」 泉美は遺影を指さした。 「今日の午後、この女がおばあちゃんを脅して脳出血を起こしたの。それでも庇うつもり?」 修也は静かに目を上げ、泉美の視線を正面から受けた。 「奈津子は今日の午後、帝都総合病院で術後の定期検査を受けていた。診療記録も残っている」 「帝都総合病院? たった今、あの女は渥美総合病院から出てきたわよ」 修也は答えなかった。下顎の古い火傷の痕だけが強張った。 「あなたが偽のアリバイを作ったのね。事実を確かめようとすらしないで」 修也が一歩前に出る。百八十七センチの長身が、上から泉美を見下ろした。 「言葉に気をつけろと言ったはずだ。奈津子は定二兄さんが命と引き換えに救った恩人だ。彼女がそんな卑劣な真似をするはずがない」 定二。修也の亡き兄。その名前ひとつで、彼は何度でもこの女に目をつぶる。 修也の背後で、奈津子が口元を歪めて笑うのが見えた。 「つまり、この女が何をしようと、亡くなったお兄さんの名前さえ出せば、あなたは無条件で罪を揉み消すというわけね」 修也の拳が体側で硬く握られた。指にはめた銀のリングが、蝋燭の光を冷たく反射する。 「今夜はここで言い争う時間はない。本邸へ戻れ。葬儀の始末は秘書に任せる」 差し出された手を、泉美は振り払った。 「出て行って。あなたたちの足で、おばあちゃんの霊安室をこれ以上穢さないで」 ボディガードが前に出ようとしたが、修也の一瞥でその場に止まった。 その途端、奈津子が胸元を押さえて苦しげに呻き、修也の腕へ崩れ落ちた。 修也は反射的に肩を抱き止め、扉の外の運転手に短く命じる。 「車を回せ。藤野さんをマンションまで送り届ける」 奈津子は修也の胸元をつかみ、涙で濡れた目で見上げた。 「修也お兄ちゃん、一緒に来てくれないの? 胸が苦しくて、一人じゃ怖いの……」 修也の動きが、一瞬止まった。 振り返って泉美を見る。だが、見つめ返す泉美の琥珀色の瞳には、もう一片の感情もなかった。 修也は何も言わず、黒いジャケットを脱いで奈津子の肩にかけ、その体を抱き寄せるようにして廊下の奥へ消えた。 革靴が濡れた大理石を踏む音が、雨音の中へ遠ざかっていく。 突風で扉が大きく軋み、冷たい雨粒が泉美の頬を打った。 泉美はゆっくりと膝を折り、床に踏みにじられた白菊を拾い上げると、ゴミ箱へ捨てた。 もう一度、遺影の前に跪く。冷たい床に額を押し当てて、三度、深く頭を下げる。 顔を上げた時、目元の涙は夜風に乾いていた。 泉美の瞳には、獲物を狙う狩人の光が宿っている。 ポケットの暗号化端末を取り出し、「W」の副官の回線へ発信した。ワンコールで繋がる。 『法務部門に連絡して。大至急、離婚協議書を作らせなさい』 『かしこまりました。藤野奈津子の身辺調査も、同時に開始しますか?』 『ええ。今日の午後、骨董通りの防犯カメラ映像を全部回収しなさい。個人のドライブレコーダーも一つ残らず洗い出して。あいつが祖母を殺した決定的な証拠を掴むのよ』 夜が明けきらないうちに雨は上がった。 数時間後、火葬炉の煙突から細い煙が立ち昇る中、泉美は小さく重い骨壺を自分の手で抱え、斎場の正門を出た。 路肩に控えた黒塗りのセダン。駆け寄った部下が、印刷したばかりのファイルを両手で差し出す。 開いた表紙には『離婚協議書』。 妻の署名欄に、泉美は一片の迷いもなく名前を書いた。 ファイルを閉じ、後部座席に乗り込む。 「六本木の会員制クラブ、『極楽天』へ出して」 部下がバックミラー越しに一瞬、彼女を見た。 「……今からですか?」 「ええ。今夜中に、どうしても渡さなきゃいけないものがあるの」
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