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壁の時計の長い針が、カチリと音を立てて深夜十時を指した。 ダイニングテーブルに並べられたフランス料理のフルコースは、とっくに冷え切っている。ローストビーフの表面には白い脂が浮き、コンソメスープにはうっすらと膜が張っていた。 結婚三周年の記念日。 その終わりまで、あと二時間もなかった。 小林静は、ただ一人、長いテーブルの向こう側を見つめていた。夫である鷹司暁の席は、最初から最後まで、空っぽのままだ。 深く息を吸い込み、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。彼の名前をタップしようとした、まさにその瞬間——画面が光り、一件のLINE通知が静寂を破った。 送り主は、暁の妹、鷹司詩織。 「お兄様、お誕生日おめでとうございます!」 無邪気な祝福のメッセージと共に、一枚の写真が添えられていた。静は指先が微かに震えるのを感じながら、その写真を開いた。 華やかなパーティー会場。その中心で、暁が優しい眼差しを向けている。視線の先にいるのは、彼の初恋の相手とされる斎藤美咲。そして彼女の隣には、五歳くらいの小さな男の子が一人。暁はその男の子がバースデーケーキの蝋燭を吹き消すのを、身を屈めて見守っていた。まるで、本当の父親のような顔で。 男の子の眉や目元——紛れもなく、暁の面影があった。 そして美咲の肩にかけられたジャケット。それは暁が最も愛用する、イタリアのオーダーメイドのカシミアスーツの上着だった。彼は決して、自分の物を他人に貸さない男だ。ましてや、女性に。 スマートフォンが手から滑り落ち、絨毯の上に鈍い音を立てて転がった。 目の前がぐらりと揺れた。 ——終わった。この瞬間、すべてが終わった。 震える指で暁のSNSアカウントを開く。いつもなら仕事関係の投稿が並ぶタイムラインには、ただ一本の冷たい灰色の線だけが表示されていた。《このユーザーの投稿は表示できません》——ブロックされている。 最後の望みをかけて、彼の番号に電話をかけた。コール音が数回鳴った後、無機質な女性の声が鼓膜を打つ。《おかけになった電話は、電源が入っていないか……》——通話が切れる。 あらゆる逃げ道が、完全に断たれた。 胃が雑巾のように固く絞られる痛みに襲われ、静はその場に崩れ落ちた。声にならない嗚咽が漏れ、涙が次から次へと手の甲に落ちていく。 三年間。この結婚生活は、一体何だったのだろう。 その時、再びスマートフォンが短く震えた。病院の看護師からのメッセージ——《お母様の術後の経過は全て安定しております。ご安心ください》。 母は一週間前に心臓の大手術を終えたばかり。絶対に、刺激を与えてはいけない。静は奥歯を強く噛み締めた。唇の内側が切れ、鉄の味が広がる。その痛みで、無理やり涙を止めた。 壁を伝い、ゆっくりと立ち上がる。 この三年間の日々が、走馬灯のように頭を駆け巡る。名門鷹司家の嫁として相応しくあるために、愛していたヴァイオリンを辞めた。彼の好みに合わせて料理を覚え、毎朝彼のシャツにアイロンをかけるのが日課だった。全ては、かつて経営危機に陥った小林家を救ってくれた鷹司家への、恩返しのつもりだった。 だが返ってきたのは、心の通わない冷たい日々だけ。 暗闇の中で、静はゆっくりと目を開けた。絶望に濡れていた瞳から、すうっと涙が引いていく。代わりに、氷のような光が宿った。この結婚は報恩などではない。ただの政治的な取引。そして自分は、鷹司家の体面を保つための、都合のいい人形に過ぎなかった。 しかし彼女は、その場に崩れ落ちはしなかった。 数秒の静寂の後、静はスマートフォンを握りしめて立ち上がり、まず母の看護師にメッセージを送った。《明日の見舞いは午後に変更します。母の体調に変わりがないことだけ、ご連絡ください》。すぐに返信が来る——《はい、全て安定しております》。 ——良かった。母は大丈夫だ。 次に彼女は、夫の専属弁護士の番号を呼び出した。時計は夜の十時を過ぎている。非常識だとわかっていた。それでも、躊躇しなかった。 三回のコールで繋がった。 「夜分に失礼します。小林静です」 「……小林様? どうかなさいましたか」 「離婚協議書の草案を、明日中に作成していただけませんか。私は財産は一切不要です。鷹司家のものは全てお返しします。費用はいくらでも構いません。至急でお願いします」 電話の向こうで、弁護士が息を呑む。しかし静は続けた。 「私の署名だけで成立させる方法を至急お調べください。私は条件を一切呑むつもりです。ただ、一日も早く、この結婚を終わらせたい」 「……承知しました。明朝一番に、ご連絡いたします」 電話を切った後、全身を大きな震えが襲った。手のひらは汗で濡れ、心臓は激しく鼓動している。目頭が熱くなったが、彼女は唇を強く噛みしめて耐えた。 ヴァイオリンを諦めた日々。彼の好みに合わせて覚えた料理。毎朝のアイロン。彼の帰りを待ち続けた数えきれない夜——そのすべてが、写真の中の笑顔の前に、音を立てて崩れ去っていく。 だが、もう迷いはなかった。 その時だった。カチャリ、と玄関の電子ロックが解除される音。聞き慣れた、重く落ち着いた足音が廊下を響かせた。 主寝室のドアが開き、暁が入ってきた。スーツの襟元からは、真冬の夜気と共に、ほのかに甘い、見知らぬ女性用の香水の香りが漂っている。 「遅くなった」 暁は部屋の異様な雰囲気には気づかず、ネクタイを緩め始めた。 静は振り返った。涙は引いていた。代わりに、異様なまでに澄んだ、冷たい光が瞳に宿っている。 「おかえりなさい、暁さん」 口調は普段と変わらず、穏やかで柔らかい。 「話があります。離婚したいんです」 暁の手が、ネクタイを解く途中でぴたりと止まった。 「……何?」 「離婚届の準備を始めました。私は財産は一切不要です。あなたのご両親への説明も、私がしますから」 暁は初めて静の顔をまっすぐに見た。その目には驚きと、わずかな苛立ちが浮かんでいる。 「ふざけるな。今すぐその考えを忘れろ。お前は鷹司家の妻だ」 「いいえ、私は小林静です。あなたの所有物ではありません」 静は一歩前に踏み出した。声は震えていなかった。 「私は本気です。暁さん、どうか私を解放してください」 時計の針が、カチリと音を立てて十時一分を指した。結婚三周年の記念日が、終わろうとしている。 静は夫の返事を待たず、主寝室を後にした。背中に、暁の鋭い視線を感じながら。 これで終わりにする——その決意が、氷のように冷たく、胸の奥に刻まれていた。

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章一覧

全50章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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