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第2章 毒された幼心と女王の帰還

朝、ブラインドの隙間から光が差した。 美詩は一睡もしていない。窓辺の椅子で夜を明かし、ずっとベッドの凛を見ていた。 凛のまつげが震えた。 美詩は立ち上がり、サイドテーブルの粥の器を手に取った。 スプーンにすくって息を吹きかけ、娘の唇へ差し出す。 「凛、起きた? 少しお粥を食べましょう」 凛は眉をひそめ、小さな手でスプーンを払いのけた。 「やだ! ママのご飯なんかいらない。琴実おばちゃまがいい!」 器とスプーンがぶつかって音がし、温かい粥が美詩の手の甲に飛び散った。 肌が赤くなる。 美詩は手を空中で止めたまま、毛布にくるまる娘を見た。 「凛、今なんて言ったの」 凛は唇を尖らせ、恨めしそうに睨みつけてきた。 「琴実おばちゃまが言ってたもん! ママは毎日家にいるだけで何もできないし、凛のこと全然好きじゃないって! パパと琴実おばちゃまが遊園地に連れて行ってくれるんだから!」 後ろにいた志津が顔色を変えた。 「お嬢様、奥様に向かってなんということを! 昨夜、奥様は一睡もせずにお側に——」 「知らない! 琴実おばちゃまが一番好きなの! ピアノも上手だし、ママはまずいご飯しか作れないじゃない!」 凛は泣き声で遮り、小さな拳でシーツを叩いた。 美詩は器をテーブルへ戻し、ウェットティッシュを一枚抜いて手の甲を拭いた。 昔の自分なら、ここで取り乱していただろう。 泣いて謝って、機嫌を取って、また同じことを繰り返す。 だが、毒された心は卑屈な謝り方では救えない。 「志津さん、朝食は下げてちょうだい。医師の指示通り、栄養は点滴に切り替えましょう」 「あ、はい……」 いつもなら必死に謝ってくる母親が、あっさり背を向けた。 凛は泣き止んで、呆然と目を見開いた。 美詩は一瞥もくれず、病室内の洗面所へ入って扉を閉めた。 蛇口をひねり、冷たい水で赤みを洗い流す。 鏡を見上げると、青白い頬の奥に、かつて学会で「氷の天才」と呼ばれた頃の目が戻っていた。 左耳の後ろの小さなほくろが、照明の下に浮かぶ。 医学界の権威だった亡き父・桑原成三の背中を追い、若くして欧州の博士課程を修了した。 それなのに四年間、「大学中退の無能な専業主婦」の仮面を被り続けた。 その結果が、実の娘からの軽蔑だ。 鏡の中の女はエプロン姿で、髪は乱れ、手の甲は赤い。 四年間、この姿で笑ってきた。 美詩は水を止め、スマートフォンに十六桁の国際暗号コードを入力した。 四年間、一度も発信していない極秘回線だ。 コール三回で繋がり、恩師のハワード教授の声が飛び込んできた。 ベルリン国立先端医学研究所の合同ラボを取り仕切っている男だ。 『MIUか!? 本当に君なのか! この四年間、どこで何をしていたんだ!』 美詩は洗面台の縁に片手をつき、流暢なドイツ語で答えた。 「先生、ご無沙汰しております。神経変性疾患および特殊抗体開発のプロジェクトを、今日から再始動させます」 『おお……! 学会が四年待ちわびた筆頭研究者の帰還だ! ベルリン国立先端医学研究所の合同ラボは、いつでも君のために空けてあるぞ!』 美詩は鏡の中の自分の目を見つめたまま、続けた。 「それと、私が設立した『ミューズ・ホールディングス』東京支社の、全資産の監査権限を戻してください。これからは私が直接指揮を執ります」 『もちろんだ。スイスの信託銀行で管理しているファンドも、すでに一千億円を超えている。君の署名ひとつで動かせるよう手配しよう』 「ありがとうございます。詳細は暗号メールで送ります」 通話を切り、発着信履歴を完全に消去した。 洗面所を出ると、椅子に掛けてあったトレンチを羽織り、ベルトを結んだ。 「奥様、もうお屋敷へ? お嬢様はまだ……」 「凛は午後には退院できるわ。夕方、車を手配して南青山へ連れて帰ってちょうだい。私には片付ける用事があるから」 ハンドバッグを取って扉へ向かうと、ベッドの凛が慌てて小さな手を伸ばした。 「ママ……?」 美詩は振り返らず、ドアノブに手をかけた。 凛は唇を震わせたまま、それ以上何も言えなかった。 玄関前のタクシーに乗り込み、美詩はタブレットを開いた。 暗号化された自分の医療特許ファイルを、上から順に確認していく。 途中で、指が止まった。 「希少血液疾患における特異的抗体の合成法」 出願人欄に刻まれていたのは、見覚えのある名前だった。 浜崎ホールディングス。 父が生涯をかけて追い求めた研究が、夫の会社の名義になっている。 美詩は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。 その頃、都心のホテルのスイートルーム。 浜崎圭哉は目を覚まし、充電器に差さったスマートフォンを手に取った。 画面に並ぶのは、妻からの十七件の不在着信と、柴田から届いた一通のメッセージ。 『昨夜、奥様より至急のご連絡がございました』 圭哉は眉を寄せてメッセージを開いたが、それ以上は読まなかった。 彼はまだ知らない。 これが、妻からの最後の着信になることを。

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章一覧

全40章

  1. 第1章第1章 嵐の夜の覚醒
  2. 第2章第2章 毒された幼心と女王の帰還
  3. 第3章第3章 凍てつく寝室と夜の残り香

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