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第3章 凍てつく寝室と夜の残り香
夜、港区南青山の浜崎家の屋敷。 二階の主寝室には間接照明だけが灯り、白檀の香が立っている。 美詩はドレッサーの前で、ドイツ語の医学ジャーナルを繰っていた。 都内の法律事務所を回った後、夕方前に戻ってきた。 午後十一時を回った頃、重厚な扉が外から押し開かれた。 冷たい夜風とウイスキーの匂いをまとって、浜崎圭哉が入ってきた。 黒のオーダースーツ。彫りの深い顔に疲れが滲み、緩めたネクタイを片手で引き抜いてソファへ放り投げる。 「昨夜はスマートフォンのバッテリーが切れていた。柴田から緊急の電話があったと聞いたが、何かあったのか」 美詩は医学誌を閉じ、耳元の髪をかき上げた。 「大したことじゃないわ。給水バルブが少し故障しただけ。志津さんが業者を呼んで直してくれたから、もう済んだことよ」 圭哉の眉が動いた。 いつもなら玄関まで出迎え、ジャケットを受け取る妻が、今夜は顔も向けない。 「バルブの故障で十七回も電話をかけたのか? 君はこれまで、俺の予定を詮索するような真似はしなかったはずだが」 美詩は椅子から立ち上がり、夫の視線を正面から受けた。 「そうね。昨夜は少し暇だったのかもしれない。これからは二度としないから、安心して」 その瞳を見た瞬間、圭哉の胸の奥に今までにない苛立ちが湧いた。 「少し話をしよう。最近の君はどうかしている」 圭哉が一歩踏み出し、長い腕を伸ばして美詩の腰を引き寄せようとした。 「今夜はもう休もう。しばらく夫婦の時間を持っていなかっただろう」 アルコールと、甘い女物の香水の匂い。 胃の奥がきしんだ。 吐息が肌に触れる直前、美詩は身をひねり、両手で胸元を突き放した。 「やめて」 空を切った腕が止まり、圭哉の顔から表情が消えた。 「……美詩、どういうつもりだ」 美詩は二歩後ずさり、腕を組んだ。 「気分が悪いの。今夜はゲストルームを使ってちょうだい」 「夫婦が同じ寝室で寝るのは当然だ。何に腹を立てているか知らないが、自分の立場をわきまえろ」 圭哉が大股で詰め寄り、美詩をベッドの柱際まで追い詰めると、細い手首を掴み上げた。 骨がきしむほど握られた。痛みはした。 だが美詩は顔をしかめなかった。ただ、氷のような目で男を見上げる。 「浜崎社長。嫌がる妻を力でねじ伏せるのも、浜崎家の立派な家風なのかしら?」 圭哉は息を呑み、手の力を緩めた。 結婚して四年、一度たりとも他人行儀に呼ばれたことはなかった。 その時、サイドテーブルのスマートフォンが震えた。 暗い画面に浮かんだ四文字。 新谷琴実。 圭哉は一瞬気まずそうな顔をしたが、目の前で着信を切ることはせず、端末を取って窓際へ歩いた。 通話ボタンをスライドさせると、琴実の声が漏れてきた。 『圭哉……手首の古い傷がまた痛むの。それにお家が急に停電してしまって……怖いの、そばにいてくれない?』 「すぐに主治医と警備の者を向かわせる。鍵を閉めて待っていろ」 『お医者様なんかいらない、私には圭哉しかいないの……! 昨夜、いつでも駆けつけるって約束してくれたじゃない!』 琴実のヒステリックな声に、圭哉の喉仏が重苦しく上下した。 「……わかった。十分で行く」 通話を切って振り返ると、美詩は腕を組んだまま、他人事のようにこちらを見ていた。 「琴実の手首の古傷が開いたそうだ。精神的に不安定だから、少し様子を見てくる」 「どうぞご自由に。いちいち私に報告する必要はないわ」 美詩が脇へ退き、扉への道を開けた。 その徹底した無関心に、圭哉は何か言いたげに唇を噛んだ。 だが結局、ソファからジャケットをひっ掴み、荒い足音を立てて部屋を出ていった。 階下で、重い玄関扉が閉まる音がした。 美詩は寝室の扉へ歩み寄り、内側からダブルロックを掛けた。 カーテンの隙間から見下ろすと、黒いマイバッハが屋敷を出ていく。 カーテンを閉め、デスクのノートパソコンを開いた。 大学時代の親友で、今は敏腕弁護士の橘千秋から届いた暗号化ファイルをクリックする。 画面に並んだのは証拠写真の数々。 一枚目は、昨夜琴実のマンション前に停まっていたマイバッハ。タイムスタンプは午前三時十二分。 美詩の指が止まった。 その時刻、彼女はまだ手術室の前の長椅子で、凛の無事を祈り続けていた。 写真を一枚ずつ確認し、千秋へ短く打ち込む。 「証拠は揃ったわ。明日、動きましょう」 送信ボタンを押した指先は、一度も震えなかった。
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