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第1章
离婚届が、ローテーブルに叩きつけられた。 「サインしろ」 藤森沙耶はソファからゆっくりと立ち上がり、声の主である夫、鷹司暁を見つめた。彼の後ろには、見慣れない女が勝利を確信した顔で立っている。 壁に掛けられた大きな額縁には、風景画が飾られている。この家に嫁いで三年。そこに二人の写真が飾られることは、一度もなかった。 つい先ほどまで、沙耶はこの静寂の中で暁の帰りを待っていた。玄関先に滑り込んできた車のエンジン音。だが、それに続いたのは、甘ったるい、知らない女の笑い声だった。 窓辺に立った沙耶の目に映ったのは、マイバッハから降りる暁が、助手席のドアを恭しく開ける姿。現れた女——安井小夜子は、慣れた仕草で暁の腕に絡みつき、別荘の窓を見上げた。目が合った気がした。さよ子の唇がゆっくりと弧を描き、笑みを浮かべた。それはまるで獲物をもてあそぶかのような、挑発的な笑みだった。 沙耶は無表情のままカーテンを引き、ソファへと戻った。そして今、目の前にその二人が立っている。 暁の端正な顔には、焦燥の色が浮かんでいた。対照的に、小夜子はまるで女主人のように、値踏みするような視線で豪奢な内装を見回している。その目には隠しきれない貪欲さが宿っていた。 「財産分与として一億円やる。それで十分だろう」 田舎出身の女性にとって、これはまさに棚ぼたのはずだった。シャオの顔にはそんな思いが浮かんでいた。 沙耶は、微かに眉を上げた。 ——一億。 三年前、彼女がこの家に持ち込んだ金の、五百分の一だった。 「沙耶さん、暁さんは優しいのよ。普通なら一円ももらえないんだから」 小夜子が勝ち誇ったように言い添える。 沙耶はようやく顔を上げた。その視線は二人を通り越し、壁の風景画に向けられる。あれは沙耶自身が描いた作品だ。そのことを、この家の誰も知らない。 彼女はペンを取った。ためらいは、なかった。流れるような筆致で、離婚届の署名欄に「藤森沙耶」と書き記す。 「え……」 暁と小夜子の顔に、驚愕が浮かんだ。あまりにもあっけない幕切れに、思考が追いつかないようだった。 沙耶は署名を終えた書類を、暁の方へ押しやった。 「離婚には同意します」 暁が安堵の息をつき、書類に手を伸ばす。 だが、沙耶の指が、書類の端を離さなかった。 その瞳が、初めて真っ直ぐに暁を射抜いた。いつもは凪いだ水面のような瞳が、今は底の見えない沼のように冷たい光を放っている。 「ただし、条件があります」 暁は眉をひそめた。 「一億で不満だと?」 「なんて強欲な女!」 小夜子が甲高い声で叫ぶ。 沙耶は彼女の存在などないかのように、暁だけを見つめていた。 「慰謝料は不要です」 沙耶は、初めて微かに笑った。 「私が保有する鷹司ホールディングスの株式、四%。時価二千億円相当。それを持って、この家から出て行きます」 リビングの空気が、凍りついた。 暁の顔から、傲慢と焦燥が消え失せる。代わりに浮かんだのは、純粋な驚愕と、信じられないという拒絶。彼は勢いよく立ち上がり、まるで初めて見る生き物のように、沙耶を凝視した。 小夜子の顔から笑みが消え、その意味を理解できないまま、暁の反応に巨大な不吉を感じ取っていた。
章一覧
全70章
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