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タクシーの後部座席で、沙耶は窓の外を流れる景色を無感動に眺めていた。港区の豪邸街が、急速に遠ざかっていく。未練は、一片もなかった。 彼女はハンドバッグから、場違いなほど古びた二つ折りの携帯電話を取り出した。榊グループとの次の案件について確認すべきことがあった、そう思った矢先だった。着信音が鳴る。画面を見ると、相手は榊泰三その人だった。 沙耶は通話ボタンを押した。 「榊会長。私からもご連絡しようとしていたところです」 『沙耶か。例の案件、進捗はどうなっている』 電話の向こうから、老人のものとは思えないほど張りのある声が響く。日本の経済界にその名を轟かせる榊グループの創始者、榊泰三。沙耶と彼の間には、表沙汰になっていない複数の協業案件が存在する。 「問題なく進んでいます。ただ——」 沙耶は一拍置いて、淡々と告げた。 「報告があります。本日付で、私は鷹司HDにおける全ての役職を辞任しました。離婚も成立する見込みです」 電話の向こうで、わずかな沈黙があった。やがて、深い溜息が聞こえてくる。 『そうか……あの阿呆な坊ちゃんが、取り返しのつかん過ちを犯したようだな』 榊泰三は、全てを察しているようだった。 「つきましては、今後の協業について再検討いただければと思います。鷹司の看板を背負わない私との取引に、リスクを感じられるようでしたら——」 『沙耶』 泰三の声が、それを遮った。 『ワシはお前と取引しとるんじゃ。鷹司とじゃない。そのことは忘れるな』 沙耶は、携帯を握る指にわずかに力を込めた。 「……ありがとうございます」 『うむ。何か困ったことがあれば、いつでもワシを頼れ。悠人もお前のことを心配しておるぞ』 孫である榊悠人の名前が出たが、沙耶は礼儀正しく礼を言うに留めた。 電話を切り、沙耶は運転手に声をかけた。 「すみません、行き先変更で。鷹司本邸にお願いします」 この家を完全に去る前に、最後のけじめをつけなければならない相手がいる。この一族の、真の支配者と。 分家よりもさらに威圧感を放つ鷹司本邸の門をくぐり、重厚な玄関の扉を開ける。すると、奥の客間から、甲高い笑い声が聞こえてきた。姑である鷹司佳乃と、安井小夜子の声だ。 小夜子は、暁の別荘から直接ここへ来て、未来の姑に取り入っていたらしい。 沙耶の姿を認めると、佳乃の顔から笑みが消え、あからさまな嫌悪が浮かんだ。 「あなた、まだいたの?さっさと離婚届にサインして、出て行ってちょうだい」 「お義母さま、そんな……」 小夜子は立ち上がり、悲しそうな顔を作る。もう「お義母さま」と呼んでいることに、沙耶は内心で冷笑した。 「沙耶さん、暁さんと何かあったの?」 沙耶は二人を完全に無視し、傍らに控えていた執事に告げた。 「お父様に会いに来ました」 「お父様はあなたなんかに会いません!」 佳乃がヒステリックに叫ぶ。 「暁の将来を邪魔する女は鷹司家に不要です!」 沙耶がもはや相手にもならぬとばかりに背を向ける。その瞬間、佳乃はわざとらしく声を張り上げた。 「小夜子さん!そういえば、そのお肌、どんなクリームを使っているの?本当に綺麗だわ」 沙耶に向けていたはずの視線を、佳乃はあからさまに小夜子へと切り替える。沙耶という存在をこの場から完全に消し去るかのように。そこにいるのは自分たちだけだと、態度で示すように。 「特別なものなんです。簡単には手に入らないんですよ」 小夜子も即座にその意図を理解し、沙耶に聞こえるよう、声をわずかに張って答えた。視線が一瞬、沙耶の背中を舐める。 ——あなたはもう、この家の人間ではないのだと。 茶番には欠片の興味もない。 沙耶は客間を抜け、屋敷の奥へと続く廊下を真っ直ぐに進んだ。後ろで佳乃が何か叫んでいるが、気にも留めない。執事が慌てて制止しようとするが、沙耶の氷のような一瞥に動きを止めた。 小夜子が、不安げな目で沙耶の後ろ姿を見つめている。この女は、何かがおかしい。彼女の本能がそう告げていた。 沙耶は、屋敷の最も奥にある、重厚な扉の前で足を止めた。鷹司家当主、鷹司正宗の書斎だ。 彼女はノックもせず、その扉を押し開けた。 中では、威厳のある老人が筆を走らせていた。招かれざる客の登場に、鷹司正宗は驚きと不快の入り混じった目で、沙耶を睨みつけた。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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