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第1章
深夜一時を過ぎたリビングで、近衛静は松川桜紗の最新SNS投稿を見つめていた。 松川桜紗。国民的人気パイロットであり、高橋健が「命の恩人」と呼び、妻である静の前でさえ特別に庇い続けてきた女だった。 友人たちと高級レストランで微笑む桜紗の胸元で、一つの宝石が煌めいている。 亡き母が遺した、一点物のルビーのネックレス。 キャプションには「健さんからのサプライズプレゼント、大切にします」と、ハートマーク付きで書かれていた。 静は震える指で写真を拡大した。留め金にある、母がつけた小さな傷。間違いなく、本物だ。 「これはどういうこと?」 静は感情を押し殺した声で、夫である高橋健にスマートフォンの画面を向けた。 壁の時計の針は、とっくに深夜一時を回っている。三回目の結婚記念日だというのに、夫は今、酔って帰ってきた。 テーブルの上には、彼女が時間をかけて作ったケーキと、一口も食べられることのなかった料理が冷たい骸のように並んでいる。 健はリビングの惨状を一瞥し、不機嫌そうに眉をひそめた。 「まだ起きていたのか」 その声には、記念日を忘れたことへの罪悪感も、妻を待たせたことへの配慮も微塵も感じられない。 静は震える指を叱咤し、もう一度画面を彼の目の前に突きつけた。 トップに表示されているのは、健が「聖女」と崇める松川桜紗の投稿だった。彼が何度も静との約束を後回しにしてまで駆けつけ、どんな非礼も「彼女には恩がある」の一言で許してきた相手。その女の胸元で、母の形見が光っていた。 「ああ、それか」 健は画面を見て一瞬顔をしかめたが、すぐに開き直った。 「桜紗の昇進祝いだ。似合っているだろう?」 その言葉に、静の心臓が氷水に浸されたように冷たくなっていく。呼吸が浅くなる。 「それは、母の形見よ」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。 「あなたが、私の宝石箱から持ち出したの?」 健は面倒くさそうにネクタイを緩めながら言った。 「たかがネックレスじゃないか。彼女は命の恩人なんだ。君も理解してくれるだろう?」 「たかが」。 その一言が、静の中でかろうじて繋がっていた最後の糸を、ぷつりと断ち切った。 この三年間、健とその家族から「孤児」「家柄がない」とどれだけ蔑まれてきたことか。その全ての中で、このネックレスだけが静の尊厳を支えてくれていた。母の愛の証。それを、この男は。 「返してきてもらって」 静はソファから立ち上がった。声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。 「何を馬鹿なことを」 健は心底呆れたというように眉をひそめる。 「一度贈ったものを返せと?みっともない真似はよせ」 彼の瞳の奥に、自分への侮蔑と、桜紗への揺るぎない庇護の色を見て、静は完全に絶望した。もう、この男に何を言っても無駄だ。愛情も、思い出も、何もかも届かない。 静はふっと息を吐き、話題を変えた。 「明日、父と母の遺骨を駐屯地まで迎えに行く日よ。約束通り、一緒に来てくれるわね?」 これが最後のチャンス。夫としての、人間としての最低限の義務を果たせるかどうかの。静は自分にそう言い聞かせた。 健はこめかみを押さえ、苛立った様子で答える。 「……ああ、分かった。朝早いんだろう?もう寝るぞ」 彼は静の肩を通り過ぎ、寝室へと向かっていく。謝罪も、感謝も、記念日へのお祝いの言葉も、何一つない。 一人、薄暗いリビングに取り残された静は、テーブルの上の冷たいケーキを見つめた。ぽつり、と一筋だけ涙が頬を伝う。 だが、すぐに手の甲で乱暴にそれを拭った。彼女の瞳から、悲しみや感傷といった柔らかい光が消え、硬質で冷たい光が宿る。 まだだ。まだ、最後の義務が残っている。 父と母を、この穢れた家から守り抜かなければ。 静は虚ろな足取りで階段を上り、健がいる主寝室ではなく、その向かいにある客間のドアノブに手をかけた。 ドアを閉める直前、彼女はもう一度リビングを振り返る。 三年間、自分の居場所だと信じてきた空間は、今はもう、他人の家のように冷たく、よそよそしく感じられた。
章一覧
全60章
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