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静は息を殺し、タクシーのドアに手をかけたまま、リビングから漏れ聞こえる声に耳を澄ませた。 聞き間違えるはずもない。姑である高橋恵子と、義妹の高橋奈々の声だ。 「お母様、本当に健兄様はあの女と別れる気があるのかしら?」 奈々の甘ったるい、それでいて棘のある声が響く。 「当たり前でしょう」 恵子の甲高い声がそれに続いた。 「桜紗さんという、あんなに素晴らしい方がいらっしゃるのよ。あんな出自も知れない孤児、高橋家の恥だわ」 その言葉が、静の胸を抉る。それは、彼女だけでなく、彼女が腕に抱く両親をも侮辱する言葉だった。静は膝の上の白木の箱を、さらに強く抱きしめた。 この人たちは、何も知らない。知ろうともしない。静の父と母がどのように生き、どのように命を落としたのかも知らずに、ただ「孤児」という言葉だけで、彼女の人生を値踏みしている。 「でも、兄様って優柔不断だから。あの女が泣きつけば、また絆されちゃうかもしれないわよ」 「だから、私たちが追い出してあげるのよ」 恵子の声には、確信に満ちた響きがあった。 「離婚届はもう用意してあるわ。健には今日にでもサインさせるから。あとは、あの女のサインだけよ」 離婚届。 その言葉に、静は息をのんだ。自分たちが知らないところで、全てが着々と進められていたのだ。健がサインするのも、時間の問題だろう。いや、もうしているのかもしれない。 怒りと絶望で、指先が血の気を失い白くなる。だが、不思議なほど頭は冷静だった。 胸の奥で、何かが静かに冷えていく。もう傷つく価値すらない。高橋家の人間に、父と母の名を汚される筋合いなどない。 彼女は静かにタクシーを降り、運転手に礼を言って料金を支払う。そして、逃げるでもなく、騒ぐでもなく、冷静に玄関のドアノブに手をかけた。 リビングのドアを静かに開けると、ソファで優雅に紅茶を飲んでいた恵子と奈々が、驚いたように振り返った。 二人の視線は、静が抱える白木の箱に注がれ、次の瞬間、露骨な嫌悪感で歪んだ。 「おかえりなさい、静さん……まあ、そんな気味の悪いものをリビングに持ち込んで……」 恵子が、汚物でも見るかのように鼻に皺を寄せる。 静は無表情のまま答えた。 「父と母です。今日から、私が引き取りました」 「お骨を家に置くなんて、縁起でもないわ!」 奈々がわざとらしく身震いして見せる。 「早くどこかへやってちょうだい。気分が悪いわ」 静の瞳に、冷たい光が宿った。 「その言い方は、今すぐ撤回してください」 静の声は低く、しかし一語一語がはっきりしていた。 「ここは、まだ私の住まいでもあります。そして、これは『気味の悪いもの』ではありません。私の父と母です。あなた方に、汚物のように扱われる筋合いはありません」 その時、二階から健が降りてきた。彼はリビングの凍りついた空気に気づき、顔をこわばらせる。 「健!」 恵子は待ってましたとばかりに、健に泣きつくように駆け寄った。 「静さんがお骨なんて持って帰ってきたのよ!この家が穢れるわ!」 穢れる。 その一語で、静の中に残っていた最後の温度が消えた。父と母は、国のために命を落とした。最後まで職務を全うし、誰かの明日を守った人たちだ。その二人を、この女は穢れと呼んだ。 健は静と、彼女が大切そうに抱える箱を見て、気まずそうに目を逸らした。彼は静に近づき、周囲に響かないように小声で言う。 「すまない、静。母も悪気はないんだ。とりあえず、それは一度、君の部屋に……」 また、これだ。 母を止めるのではなく、静に引けと言う。傷つけた側ではなく、傷つけられた側に黙れと言う。三年間、健はいつもそうだった。優しさのふりをして、結局は高橋家の都合だけを守ってきた。 「謝る相手が違うでしょう」 静は健の言葉を、冷たく遮った。 「あなたがまず止めるべきなのは、私ではなく、お義母様です」 静は白木の箱を抱いたまま、健を真っ直ぐに見据えた。 「そして謝るべき相手は、私の父と母です。亡くなった人間なら、何を言っても許されるとでも思っているのですか」 健は絶句した。彼は母の無礼な言動を制止するどころか、またしても静に我慢を強いている。自分の母親が、英雄として国に殉じた静の両親を「気味の悪いもの」「穢れ」と罵っているというのに。 静の反抗的な態度に、恵子は完全に激昂した。 「なんて口の利き方なの!本当に親の顔が見てみたいわね!」 そして、彼女は残酷な笑みを浮かべて、最後の一撃を放った。 「ああ、もう死んでて見られないんだったわね!」 その言葉は、決して超えてはならない一線だった。 静の全身から、怒りとも悲しみともつかない、絶対零度のオーラが立ち上る。 彼女は一歩、恵子に向かって踏み出した。その静かな気迫に、恵子は思わずたじろぎ、一歩後ずさる。 「今、何と?」 静の声は、地を這うように低く、重かった。 「もう一度、言ってみてください」 静は恵子から目を逸らさなかった。 「私の父と母の前で、同じ言葉をもう一度言えるのなら」 「静、やめろ!」 健は慌てて二人の間に割って入る。 「母さんも、言い過ぎだ!」 しかし、彼の制止はあまりに弱々しく、火に油を注ぐだけだった。健に庇われたことで勢いづいた恵子は、さらに静を罵倒しようと口を開く。 静は、母と妹の暴言を本気で止めようとしない夫に、最後の失望を覚えた。 この男は、最後まで夫ではなかった。妻を守れないのではない。守る気がなかったのだ。 もう、この家族に期待するものは何もない。 怒りは、やがて奇妙な静けさへと変わっていった。目の前の三人が、急にひどく遠く見える。血の通った家族ではなく、ただ同じ部屋にいるだけの他人だった。 静は健の腕を静かに振り払うと、白木の箱を胸に抱き直し、この狂った茶番劇が繰り広げられるリビングに背を向けた。 「この家に、父と母を一分一秒でも置いておきたくありません」 彼女は振り返らずに告げた。 「穢れているのは、この箱ではありません。この家のほうです」

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読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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