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第2章
翌朝、静は日の出前に目を覚ました。 寝室のドアを静かに開けると、健はまだベッドの中で深い眠りに落ちている。部屋には昨夜のアルコールの匂いが微かに残っていた。 静は黒いフォーマルなワンピースに着替え、化粧も控えめに整えた。全ての準備を終えてから、彼女はベッドサイドに立ち、眠る健の肩を優しく揺する。 「健さん、時間よ」 健は唸り声を上げ、布団を頭まで深く被った。 「うるさい……まだ早いだろう……」 その子供のような仕草に、かつては愛おしささえ感じたこともあった。だが今は、胃の奥が冷たくなるような不快感しか湧いてこない。 「駐屯地との約束の時間に遅れるわ」 静が淡々と告げると、健は億劫そうに布団から顔を出した。そして、不機嫌さを隠そうともせず、こう言い放った。 「桜紗が昨夜、急なフライトで体調を崩した。看病に行かないと。すまないが、一人で行ってくれ」 桜紗。 またその名前だ。彼の口からその名前が出るたびに、静の心は少しずつ削られてきた。そして今、最後の期待も、粉々に砕け散った。 静は何も言わなかった。ただ、静かに健を見つめる。その瞳には、もはや悲しみはなく、氷のような軽蔑の色だけが浮かんでいた。 健はその視線に耐えられなくなったように、居心地悪そうに目をそらす。 「埋め合わせはする。だから、今日は勘弁してくれ」 その言葉が、どれほど空虚なものか。静はもう知っていた。 「分かりました」 静は静かに一礼し、それだけを告げて寝室を後にした。もう、この男に掛ける言葉は一つもなかった。 玄関でヒールの低いパンプスを履き、静は高橋家の豪邸を一度も振り返ることなく、予約していたタクシーに乗り込んだ。 車窓から流れる景色を眺めながら、静の心は不思議なほど凪いでいた。涙は、もう一滴も出なかった。 高橋家の人間は、静のことを「両親を亡くした、身寄りのない女」だと思っていた。孤児で、後ろ盾もなく、家柄もない。だからこそ、姑も義妹も、遠慮なく彼女を踏みつけてきたし、健もまた、妻を大切に扱う必要などないと、どこかで思っていたのだろう。 だが、彼らは知らない。静の父と母が、国の任務中に命を落とした自衛官であったことを。彼らの名が、今もこの国のどこかで、敬意と共に記録されていることを。 一時間ほど走り、タクシーが陸上自衛隊の駐屯地に到着する。厳格な門構えに、空気が引き締まるのを感じた。 門番の若い隊員が敬礼で迎え、静が身分証を提示すると、その表情が驚きに変わった。彼は慌てて背筋を伸ばし、より一層深く、力強い敬礼をする。 静が構内へ進むと、両親の元上官であった藤堂剛が、数名の隊員と共に彼女を待っていた。藤堂は退役して久しいが、その佇まいは現役時代と何ら変わらない。 「よく来たな、静君」 藤堂の厳しい表情が、静の姿を認めてふっと和らいだ。 その瞬間、藤堂と彼に続く隊員たちが、静に向かって寸分の乱れもない完璧な敬礼をした。 その厳粛な敬意に、静は深く頭を下げて応える。自然と背筋が伸び、胸が開く。高橋家で見せていた、あの弱々しく萎縮した姿はどこにもない。凛とした気品が、彼女の全身から立ち上っていた。 「ご主人は一緒ではないのか?」 藤堂が尋ねる。 「急用ができたそうです」 静は静かに、事実だけを答えた。藤堂は何かを察したように、それ以上は何も聞かなかった。 遺骨が安置されている厳かな一室へ案内される。部屋は清潔に保たれ、神聖な空気に満ちていた。 藤堂は静に、彼女の両親がいかに国のために命を捧げた英雄であり、隊の誇りであったかを、改めて力強く語った。 「二人の遺骨を、国の英霊として合葬するという選択肢もあった。だが、君の気持ちを尊重し、今日まで待っていた」 その言葉に、静は胸が熱くなるのを感じた。 「ありがとうございます」 深く頭を下げ、両親の遺骨が納められた白木の箱を、丁寧に、大切に受け取る。 ずっしりとした重み。それが、両親が生きた証のように感じられた。 「何か困ったことがあれば、いつでも我々を頼ってくれ」 藤堂は静の目を真っ直ぐに見つめて言った。 「我々は君のご両親に、そして君に、常に敬意を払っている」 高橋家で踏みにじられ、失いかけていた自尊心が、この場所で、彼らの言葉で、少しずつ満たされていくのを静は感じた。 隊員たちに見送られ、再びタクシーに乗り込む。 膝の上の箱を、そっと撫でた。 「お父さん、お母さん、ただいま」 高橋家へ戻る道中、彼女の心は完全に決まっていた。この人たちを、あの家に置いておくわけにはいかない。 タクシーが高橋家の壮大な門をくぐり、重厚な玄関へと近づいていく。 静が車を降りようとした、その瞬間だった。 リビングの窓から、甲高い笑い声と、楽しげな会話が漏れ聞こえてきた。 静は動きを止め、その声に耳を澄ませた。
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