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第1章
車の衝突音。 ガラスが砕け散る甲高い悲鳴。 全身を襲う骨が軋むような衝撃。 「いやっ!」 北野凛は自分の叫び声で目を覚ました。 病室の殺風景な白い天井が視界に飛び込んでくる。全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れ薄い病衣が肌に張り付いていた。心臓が肋骨の内側で暴れ呼吸が浅く速くなる。 凛は恐怖に駆られ震える手で自身の腹部を庇うように押さえた。高く丸く膨らんだそこから微かな胎動が伝わってくる。その小さな命の感触だけが凛を悪夢の淵から引き戻す唯一の錨だった。ようやく詰めていた息を吐き出す。 だが、ほっと息をついたその瞬間、凛は無意識のうちに右の太腿に手をやっていた。薄い病衣の下、皮膚の奥に埋め込まれたプレートの鈍い異物感がまだそこにある。あの雨の夜、舗装路に全身を打ちつけられた記憶の残骸だ。凛は眉をひそめ、手をそっと離した。 静寂を破り病室の引き戸が静かに開いた。 盆を持った看護師の鈴木葵が足音を殺して入ってくる。 「北野さん、また怖い夢?」 葵は凛の額に滲む汗を見て心配そうに眉を寄せた。そしてサイドテーブルに盆を置くと温かいタオルをそっと手渡した。 「大丈夫、なんでもないの」 凛はタオルを受け取り額を拭いながら力なく笑った。内心の恐怖を悟られまいと必死だった。 葵は手際よく点滴の袋を交換しながら世間話のように口を開いた。 「そういえば高橋さん、もうすぐ海外から戻られるそうですよ」 蓮──高橋蓮。凛の婚約者、深く信頼する相手、運命を共にするはずの男。凛はそう信じて疑わなかった。 その名を聞いた瞬間凛の虚ろだった瞳に確かな光が宿った。シーツを強く握りしめ身を起こそうとする。 「だめですよ北野さん、切迫流産の兆候があるんですから、絶対安静です」 葵に肩を押さえられ凛は素直にベッドへ体を沈めた。 抵抗する力は残っていなかった。 葵が医療ワゴンを押して病室を出ていく。ドアが閉まる間際、彼女がわずかに振り返り、何か言いたげに唇を開きかけたが、結局なにも言わずに去っていった。 凛は再び一人になり、天井のシミをぼんやりと見つめながら蓮が帰ってきた後のことだけを考える。彼ならきっと数ヶ月前に自分を陥れた罠の真相を暴いてくれる。そう信じることだけが今の凛を支える全てだった。 その時だった。 廊下から硬質な床を叩くハイヒールの音が聞こえてきた。 傲慢で有無を言わせぬ圧力を伴った足音。 バンッ! 病室のドアが乱暴に開け放たれる。 そこに立っていたのはシャネルの最新作であるツイードのワンピースに身を包んだ北野雅だった。 雅は消毒液の匂いが気に入らないとでも言うように鼻をつまんで手をひらひらと振った。そしてベッドに横たわる凛を汚物でも見るかのような軽蔑の眼差しで見下ろす。 「雅……どうしてここに」 凛の体は瞬時に硬直した。声には隠しきれない警戒心が滲む。 雅はカツカツと音を立ててベッドに歩み寄る。その顔にはいつも浮かべている天使のような微笑みはなかった。 「まるで負け犬ね。今のあなた」 居丈高な嘲笑。 「蓮さんが戻れば全てわかるわ、私が嵌められたってことも」 凛が怒りを込めて言い返す。 すると雅は突然口元を押さえて甲高く笑い出した。誰もいない病室にその声が不気味に響き渡る。 「本当にそう思う?」 雅は身を屈め凛の耳元に顔を寄せた。 そしてわざとらしく声を潜めて驚くべき秘密を囁いた。 「あなたを薬漬けにしてあの部屋に放り込んだのはこの私よ」 雷に打たれたような衝撃。 凛の瞳孔が激しく収縮する。目の前にある清純な仮面を被った妹の顔が信じられなかった。 「あの夜あなたを抱いたのはどこかの権力者なんかじゃないわ、ただのホームレスよ」 雅は追い打ちをかけるように残酷な言葉を吐き捨てた。 凛の中で何かが音を立てて砕け散った。 感情が沸点を超え凛は咄嗟に腕を振り上げた。サイドテーブルに置いてあったガラスのコップが床に叩きつけられけたたましい音と共に破片が飛び散る。 雅は素早く一歩下がり水浸しの床を避けた。そして凛が絶望に打ちひしがれる様を冷たい笑みを浮かべて見物している。 「あなただけは……許さない!」 凛は雅に掴みかかろうと身を起こすが腹部に走った鋭い痛みでベッドに逆戻りした。 その時雅はスマートフォンを取り出しある音声を再生した。 スピーカーから流れてきたのは凛の婚約者である高橋蓮の声だった。 『愛しているよ雅。僕が本当に守りたいのは君だけだ』 甘く情熱的な告白。 それは自分に向けられるはずだった言葉。 凛の顔から血の気が引いていく。両手で胸元の服を心臓が張り裂けそうなほど強く握りしめた。 「私たちもうすぐ婚約するの、だから諦めて」 雅はスマートフォンを仕舞い傲慢に言い放った。 唇を強く噛み締め口の中に鉄の味が広がる。凛は涙が溢れそうになるのを必死で堪え絞り出すような声で命じた。 「出ていけ……今すぐここから出ていけ!」 「ふん」 雅は鼻を鳴らし踵を返す。 ドアに向かう途中わざとらしくガラスの破片を一つハイヒールのつま先で蹴り飛ばした。 そしてドアノブに手をかけたところで立ち止まり最後の呪いを吐きかけるように振り返った。 「せいぜい父親のわからない子供でも産むことね」 バタン。 ドアが閉まる音と共に凛の堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。 裏切りと屈辱の嵐の中で凛はただ自分のお腹を固く抱きしめることしかできなかった。
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