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雅は病室を出たがすぐには立ち去らなかった。 廊下の壁に寄りかかり静かにその時を待つ。やがて遠くから聞こえてくる革靴の足音。焦燥感を含んだ速いリズム。高橋蓮のものだと雅はすぐにわかった。 彼女は素早くハンドバッグから目薬を取り出し両目に数滴垂らす。瞬きの間にその瞳は潤み表情は悲痛に満ちたものへと完璧に切り替わった。 蓮が廊下の角を曲がったその瞬間。 雅はわざと病室のドアを再び押し開けまるで凛に責め立てられているかのように泣きじゃくる声で叫んだ。 「凛さんお願いだから怒らないで! 私ただ心配で……」 そう言いながら雅は計算された動きで後ずさる。 点滴スタンドを支えになんとか立ち上がっていた凛は雅の突然の豹変に困惑と怒りを覚えた。 「雅あなた……何を」 凛が何かを言う前に蓮が病室の入り口に駆け込んできた。 雅はそのタイミングを逃さない。 「きゃっ!」 短い悲鳴と共に雅は自らバランスを崩し床へと派手に倒れ込んだ。 その手はまるで運命に導かれたかのように先ほど凛が叩き割ったガラスの破片の上に置かれた。白い手のひらに鮮血が滲む。 「雅!」 蓮の目に信じられないものを見るような衝撃が走った。彼は一瞬のためらいもなく雅の元へ駆け寄りその体を抱きしめる。 そしてゆっくりと顔を上げた。 その瞳には凛に対する燃えるような嫌悪と深い失望が宿っていた。 「蓮さん違うの、彼女が自分で……」 蓮の視線に射抜かれ凛は震える声で弁解しようとした。だが体は衰弱しきっていてまともな声が出ない。 「蓮様凛さんを責めないであげてください、妊娠中で気持ちが不安定になっているだけなんです」 蓮の腕の中で雅はか細い声で凛を庇うふりをした。 「妊娠」という言葉に蓮の眉が屈辱に歪む。 彼は凛を睨みつけ吐き捨てるように言った。 「恥を知れ、なんて悪辣な女なんだ」 「私の話も聞いてくれないの?」 凛の心は冷たい深海へと沈んでいく。 「僕は自分の目で見たものしか信じない」 蓮は冷酷に言い放った。 「北野凛。君との婚約は今日この時をもって破棄する」 そして蓮は凛が見ている前で雅の額に優しく口づけをした。 「僕が本当に愛しているのは雅だ」 目の前で繰り広げられる光景に凛は吐き気を覚えた。腹部の痛みが再び激しくなる。 蓮は傷ついた雅を抱き上げると一度も振り返ることなく病室を去っていった。まるでそこに転がるゴミでも見るかのように凛を置き去りにして。 凛は衝動的に手背に刺さったままの点滴針を引き抜いた。 血が白い肌を伝って滴り落ちる。 よろめきながら病室を飛び出し廊下を走る。一階のロビーまで追いかけると周囲の人々が奇異の目で彼女を見た。 外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。 視界が叩きつける雨で白く霞む。 凛は雨の中に飛び出した。 蓮が雅を高級車の後部座席に宝物のようにそっと乗せているのが見えた。 「蓮さん!」 雨音に負けないよう最後の力を振り絞って叫ぶ。 涙なのか雨なのかもうわからなかった。 車の窓は無情にも閉められエンジンが唸りを上げる。 黒いセダンは水飛沫を上げて走り去り跳ね上げられた泥水が凛の薄い病衣を汚した。 凛は道路の真ん中で立ち尽くした。 体がふらりと揺れる。 周囲からけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。 その時だった。 雨でスリップした大型トラックが耳をつんざくようなブレーキ音と共に凛に向かって突っ込んでくる。 振り返った凛の目に眩いヘッドライトの光が突き刺さった。 視界が真っ白になる。 凛は本能的に両手で自分のお腹を固く固く守った。 激しい衝撃音。 凛の体は糸の切れた凧のように宙を舞い水たまりに叩きつけられた。 アスファルトの上に雨水に混じって赤い色が急速に広がっていく。 意識が遠のく中凛は体の下から生暖かい液体が流れ出ていくのを感じた。 心の奥底で絶望の悲鳴が上がった。 遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。 凛は深い闇の中へと完全に意識を沈めた。 そして五年の時が動き出す。

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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