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第3章 すぐそこに迫るクズ夫の影
和花はタブレットの上で指を滑らせ、資産移転に関する極秘合意書を暗号化して顧問弁護士へと送信した。
ベッドの脇では、莉音が産褥パッドや血のついたガーゼの入った医療用ゴミ袋の口を固く縛っている。
「これ、誰かに見られたら一発でバレるからね。私が外の医療廃棄物処理室に捨ててくるから、あんたはここで大人しく待ってなさい」
莉音はゴミ袋を提げ、声を潜めて言った。
和花は画面から目を離さないまま、小さくうなずいた。
「お願いね。くれぐれも気をつけて」
莉音は病室のドアをそっと開け、廊下の突き当たりにある処理室へと向かった。静まり返ったVIP病棟の廊下に、彼女のハイヒールの音だけが規則正しく響く。
その頃、町田総合記念病院の1階ロビーでは、仕立ての良いスーツを着こなした杉崎成也が、川端亜美の腰に手を添えて高級フルーツショップの前に立っていた。
亜美は限定品のエルメスのバッグを揺らしながら、成也の肩に甘えるように頭を預けている。
店員が桐箱に入った特大のメロンとシャインマスカットの盛り合わせを恭しく差し出すと、成也はブラックカードを指先で挟んで差し出した。
「VIP病棟の805号室、松本健太様の部屋へ届けてくれ」
「成也くん、私もうヒールで足が痛くなっちゃった。ただの取引先のお見舞いなのに、どうして私まで連れてきたの?」
亜美が唇を尖らせて不満をこぼすと、成也は彼女の鼻先を指先で軽くつつき、甘やかすような声を出した。
「松本さんは家族を何より大切にする人だ。待望の男の子が生まれたばかりで、あの人がどれほど喜んでいるか。この下半期の大型契約を絶対に勝ち取るためには、俺がどれだけ子供と家族を重視しているかをアピールしなきゃならない。だから華やかなお前を連れて顔を出しておきたかったんだよ」
ふたりはVIP専用のエレベーターに乗りこみ、和花の病室があるのと同じ8階へと上がった。
805号室に入ると、生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた松本健太が、笑顔で成也たちを迎えた。
「これは杉崎社長、わざわざお越しいただきありがとうございます」
挨拶を交わしたあと、松本は成也の隣に立つ亜美に視線を移し、不思議そうに首を傾げた。
「ところでこちらは? 奥様の和花さんは、今日はいらっしゃらないのですか? 確か、奥様ももうすぐご出産だと伺っておりましたが」
成也の表情が一瞬だけこわばった。彼はすぐに小さく咳払いをして取り繕う。
「ええ、和花は最近お腹が重くなりまして、自宅で安静にさせています。こちらは弊社の……特別顧問を務めている川端です」
『特別顧問』という言葉を聞いた瞬間、亜美の瞳の奥にどす黒い不満の色がよぎった。だが彼女はすぐに完璧な笑みを浮かべ、しおらしく頭を下げた。
松本はそれ以上深く詮索せず、豪快に笑って成也の肩を叩いた。
「妊婦さんは大事にせんとな! 杉崎社長のところも元気な跡取り息子が生まれたら、盛大にお祝いさせていただきますよ」
成也は愛想笑いを浮かべてうなずき、十五分ほど歓談したあと、会社の会議を口実に亜美を連れて病室を後にした。
廊下に出るなり、亜美は成也の腕を乱暴に振り払い、冷たく鼻を鳴らした。
「特別顧問ですって? 私ってそんなに人前に出せない存在なの?」
成也が苛立たしげに眉間を揉み、なだめようと口を開きかけた――そのときだった。
廊下の曲がり角から、ひとりの女が歩いてきた。医療廃棄物を捨て終え、手を払いながら戻ってきた莉音である。
鉢合わせした三人の間で、空気がピタリと凍りついた。
莉音の足が止まる。その鋭い視線が、成也と亜美の密着した距離を素早く捉えた。
「菊田莉音……? なぜ君がこの病院にいるんだ? 和花はどうした?」
成也が眉をひそめ、強い口調で問い詰めた。
莉音は胸の前で腕を組み、顎をわずかに上げて、汚物でも見るかのような冷たい目で成也を上から下まで見下ろした。
「杉崎社長こそ、ずいぶんとお暇なのね。ここ、あんたの家のプライベート病院だったかしら? 私がどこへ行こうと勝手でしょう」
亜美がわざとらしく肩をすくめ、成也の背中に隠れるようにしてか細い声を出した。
「莉音さん、成也くんはただ和花さんのことを心配して聞いただけなのに……そんなに怖い顔をしないでください」
莉音はフッと鼻で笑い、氷の刃のような視線を亜美に向けた。
「心配? 愛人を連れて病院をうろつくのが妻への心配なわけ? あんたたち、本当に吐き気がするわ。川端さんも重度のうつ病だか何だか知らないけれど、他人の夫にすがりついてピンヒールで散歩できるくらいには完治したのね。図太い神経してて羨ましいわ」
図星を突かれた成也の顔が、みるみるうちにどす黒く染まった。だが、すぐ近くに松本の病室があるため、大声を出すこともできず、ギリッと奥歯を噛みしめるしかない。
「菊田、口を慎め! 俺の質問に答えろ、ここで何をしている!」
成也が一歩踏み出した。この曲がり角のすぐ先、わずか二十メートル足らずの場所に和花の病室がある。絶対にこれ以上進ませるわけにはいかなかった。
莉音は心臓が早鐘を打つのを感じながらも、顔色ひとつ変えずに挑発的な笑みを浮かべた。
「婦人科の検診よ。なに、杉崎社長は妻の親友のカルテまでチェックするご趣味がおありなの?」
「……っ!」成也は反論の言葉を見つけられず、顔を真っ赤にして拳を握りしめた。
莉音は逆に一歩前へと詰め寄り、三人にしか聞こえない低い声で囁いた。
「その薄汚いゴミを連れて、さっさと私の視界から消えなさい。これ以上私の気分を害するなら、今すぐ懇意にしてる週刊誌の記者に、この不倫ツーショットを売り渡してあげるわよ。あなたの『家族想いの社長』というメッキが剥がれたら、どうなるかしらね?」
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