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第2章 婚前契約――互いに干渉しない約束

翌朝早く。

慣習どおり、澄音と詩織は手土産を持って神代家を訪れた。

食事の席は終始穏やかな雰囲気に包まれ、 何事もなく終わった。

神代家の女主人・神代百合子が、穏やかな笑みを浮かべて言った。「二人とも、本当にいい子ね。私たちに気を遣わなくていいのよ。せっかく顔を合わせたんだから、若い者同士で遊んでおいで」

その場の者たちも同意するように頷き、澄音も席を立った。

ほどなくして、食堂には人の気配がなくなった。

「澄音」 低く落ち着いた声が響いた。真彦がいつの間にかすぐ近くに立ち、無表情のまま言った。「ついてこい」

そう告げると、返事も待たずに背を向けて歩き出した。

澄音は仕方なく、小走りで後を追った。

そのまま書斎へと足を踏み入れる。

真彦は何気なくドアを閉めた。

パタン、と軽い音が響く。

そのかすかな音が、澄音の敏感な神経を刺激した。一瞬で意識は前世へと引き戻される。

あの時も、蓮也は彼女が言うことを聞かない、思い通りにならないと感じるたびに、部屋へ引きずり込み、仮面を剥ぎ取ってはベルトを外し、容赦なく打ちつけたのだ!

ベルトが身体に叩きつけられ、焼けつくような痛みが走る。

澄音は思わず震え、一歩後ろへ下がった。

それに気づいた真彦は、少し間を置いてから距離を取った。「安心しろ。君に危害を加えるつもりはない。ただ、人に聞かれたくない話もある」

澄音ははっと我に返り、片手をぎゅっと握りしめた。「わかっています」

ただ、蓮也に刻み込まれた恐怖から、まだ抜け出せていないだけだった。

気持ちを整え、澄音は目の前の真彦を静かに見つめた。

前世で彼と顔を合わせたのは、わずかに二度。

一度は佐倉家と神代家の婚約が決まった時。もう一度は、交通事故で顔に消えない傷を負い、車椅子の身となっていた時だ。

しかも、その時も遠くから一目見ただけだった。

前世で落ちぶれた彼と比べれば、今の真彦はまるで別人だった。冷酷と評されるに足る威圧感をまとっている。

身長は190センチ近く、髪はオールバック。濃い色のシャツにスラックスという無駄のない装いで、まくり上げた袖の下からは、引き締まった前腕が覗いていた。

「何かご用ですか?」澄音は目線を落としながら言った。

心の奥でふと考える――もしこの体格の男に暴力を振るわれたら、自分はどれだけ耐えられるのだろうかと。

真彦は書斎の机へ歩み寄り、引き出しから一枚の契約書を取り出すと、彼女の前へ無造作に置いた。「先に言っておくが、結婚には同意した。だが、俺たちの間に感情はない」

彼に想い人がいることを、澄音はすでに知っていた。

「君も、やむを得ない事情で了承したのだろう」

真彦は契約書をさらに前へ押し出した。「だから、婚姻関係が続く間はこれを守れ。 人前では仲の良い夫婦を演じる。 私生活では互いに触れないし干渉もしない。 それぞれの生活を尊重する、それだけだ」

澄音は顔を上げ、思わず聞き返した。「本当ですか?」

その反応はあまりにも正直すぎた。

真彦は片眉を上げた。「随分と嬉しそうだな」

「いえ」 澄音は唇を噛み、急いで契約書を手に取って内容を確認した。

内容は公平で、結婚後の基本的な取り決めが記されているだけだった。

異議はなかった。ペンを手に取り署名しようとしたが、その瞬間、手が止まった。

「どうした?」真彦は眉を寄せた。「何か気になる点でもあるのか?」

澄音は顔を上げて彼を見た。「真彦さん、結婚後も私が研究を続けることは、構いませんか?」

真彦はわずかに口元を緩めた。「ああ、言っただろう。表向きさえ整えれば、私生活は各自自由で構わない」

その時、携帯の着信音が鳴り響いた。

真彦が電話に出ると、その口調は一変して柔らかくなった。「心配するな、すぐに人をそちらへ向かわせる。 こちらはもう終わった、すぐに行く。ああ、わかった」

電話越しの彼は、澄音と向き合っている時とはまるで別人だった。

受話器の向こうにいる相手を、深く大切にしているのがひしひしと伝わってくる。

澄音はむしろ安堵し、迷いなく署名を書き終えた。

真彦は通話を終え、署名された契約書を確認すると、小さく頷いた。「助かる」

契約書は二部用意されており、澄音はそのうち一部を受け取った。

用件を済ませると、真彦は契約書をしまい、ドアを開けて澄音を外へと促した。

書斎を出たが、蓮也と詩織の姿は見えなかった。

真彦が言った。「妹さんは蓮也とどこかへ出たようだ。 帰りはどうする?車を用意させようか?」

適度な距離感と礼儀を守り、あくまで取り決めに基づいた配慮。澄音に踏み込むことなく、明確な線引きが感じられた。

澄音の心は次第に落ち着いていった。

前世で蓮也に支配され続けた彼女にとって、互いの領域を侵さないこの関係こそが理想だった。

これなら、佐倉家から距離を置き、安心して研究に没頭できる。

そして将来、真彦と離婚する時も、円満に自由を手に入れられるはずだ。

「いえ、大丈夫です」 澄音は線引きを守り、きっぱりと言った。「自分でタクシーを呼んで帰ります。ありがとうございます」

真彦は軽く頷くと、そのまま立ち去った。

澄音は執事の送迎の申し出も断り、一人で外へ向かった。

庭を歩いていると、植え込みの向こうから声が聞こえてきた。

「詩織、安心してくれ。俺は兄とは違う。兄は誰と結婚しても形だけだ。俺は君と、ちゃんと向き合うつもりだ」

蓮也の声だった。

澄音は思わず足を止め、息を潜めた。

彼女は心の底から蓮也を恐れている。

足がすくみ、その場から動けなくなった。

揺れる木の葉の隙間から、蓮也が優しい眼差しで詩織の首にネックレスをかけている様子がはっきりと見えた。

「つけてあげるよ」

詩織は頬をほんのり赤く染める。「はい」

背を向けているため、蓮也の瞳に潜む陰湿な計算と冷酷さには気づいてなかった。

詩織は今、父の誠司から溺愛されており、将来的に佐倉家を継ぐ可能性は高い。

そうなれば、佐倉家は蓮也の跡継ぎ争いにおいて力になる。

一方で澄音は、 研究室にこもるばかりの、取るに足らない存在に過ぎない。

詩織は首元のネックレスに触れながら、甘やかな笑みを浮かべていた。

前世、希望に胸を膨らませて真彦に嫁いだ。いつか報われると信じていた。 なのに手にしたのは、たった一枚の契約書。

一歩間違えれば、すべてが狂っていく。

難産の末に命を落とすことになった。

だから今回は、最も優しい蓮也を選んだのだ。

結婚式の日には、必ず澄音を見返してやる!

「そろそろ行こうか、送ろう」 蓮也は視線を戻し、甘い笑みを浮かべた。

「はい」 詩織は自ら彼の手を取り、寄り添った。

二人はそのまま別の方向へ歩き去った。

物陰に隠れていた澄音は膝が笑い、近くの石に手をついて必死に体を支えた。

しばらくして呼吸を整えると、ようやく門の方へ歩き出した。

ちょうどその時、蓮也が詩織のために車のドアを開けて乗せるところだった。

車の窓越しに、詩織は勝ち誇ったような目で、抜け殻のような澄音を一瞥し、口元をわずかに上げた。

今頃、もう真彦からあの契約書を受け取っているはずだ。

今世で、澄音が幸せになれることはない――詩織はそう思っていた。

車はそのまま走り去った。

澄音はただほっとしていた。今世ではもう、蓮也とは何の関わりも持たずに済むのだと。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全842章

  1. 第1章第1章 夫を選ぶ、その日へ
  2. 第2章第2章 婚前契約――互いに干渉しない約束
  3. 第3章第3章結婚式での小細工

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