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第2章 暴風雨の夜の逃避行
激しい雨粒が、露出した乃愛の肌を鞭のように打ち据えた。
病院の通用口を出た瞬間、アスファルトの冷気と鋭い小石が容赦なく足裏を切り裂く。乃愛は破れた白衣の前をきつく合わせ、背後を振り返ることなく無我夢中で走り続けた。
数メートル先にあるゴミ収集所の陰に身を潜めると、遠くの救急車用ロータリーに黒塗りのセンチュリーとアルファードが急停止するのが見えた。
傘も差さずに飛び出してきた数名の男たち――博臣の専属SPたちだ。
「裏口の監視カメラを確認しろ! まだ遠くへは行っていないはずだ!」
雨音に混じって怒声が届く。
乃愛は息を殺し、泥水の中にしゃがみ込んだ。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、胸骨を内側から叩き割らんばかりに跳ねている。両手でしっかりと下腹部を抱え込み、冷え切った自らの体温を少しでも胎児へ分け与えようと身を縮めた。
(お願い……お願いだから、見つからないで……)
SPたちが病院の敷地内へと散っていった隙を見計らい、乃愛は路地裏の暗がりへと飛び出した。
街灯の明かりを避け、人通りの途絶えた歓楽街の裏手を縫うように進む。路上に転がっていた割れた空き缶を踏み抜き、右足の土踏まずから鮮血が泥水へと溶け出した。しかし、下腹部を襲うシクシクとした疼きに比べれば、足の痛みなど無に等しかった。
大通りに出ると、深夜にもかかわらず雨に煙るネオンが怪しく揺らめいていた。
乃愛は通りかかるタクシーに向かって必死に手を挙げた。だが、泥まみれで髪を振り乱し、素足から血を流している異様な姿の女を乗せようとする車など一台もない。容赦なく水しぶきを浴びせられ、何台もの車が無情に走り去っていった。
その時、後方の交差点から猛烈なスキール音が響いた。
眩いハイビームが雨幕を貫き、乃愛の影を舗道に長く引き伸ばす。あの見覚えのある、漆黒のアルファードだ。
(追いつかれた……!)
乃愛は脇目も振らず、すぐ目の前にあった二十四時間営業のコンビニエンスストアへ飛び込んだ。自動ドアの電子音が鳴り響き、冷房の効いた明るい店内に泥の足跡が点々と続いていく。
レジカウンターにいた若い店員が息をのんで目を見張った。
「えっ、ちょっと、お客さん……?!」
乃愛は言葉を返す余裕もなく雑誌コーナーをすり抜け、『関係者以外立ち入り禁止』とプレートの掲げられたバックヤードの扉を押し開けた。
段ボールが天井まで積み上げられた狭い倉庫の最奥、スチールラックの隙間に体を滑り込ませると、膝を抱えて息を殺した。
数秒後、自動ドアが再び開き、重々しい靴音が響きわたる。
「おい、今ここにずぶ濡れの女が入ってこなかったか」
低く威圧的な男の声――博臣の筆頭SP、滝口三郎だ。
「あ、えっと……裏の倉庫のほうに……」
怯えた店員のおどおどとした声が届き、乃愛の背筋を氷の刃が撫で下ろした。
倉庫のノブが乱暴に回され、扉が勢いよく開け放たれる。
蛍光灯の光が差し込み、男の黒い影が床へ長く落ちた。乃愛は自らの口を両手で塞ぎ、がちがちと噛み合わずに鳴る歯を必死で抑え込んだ。指先が寒さと恐怖で小刻みに痙攣する。
男が一歩、また一歩とラックの列に近づいてくる。
その時、棚の陰から一匹の痩せた野良猫が、甲高い威嚇音を上げて飛び出した。男の足元をすり抜け、店内へと一気に駆け出していく。
「ちっ……猫か」
滝口が忌々しげに舌打ちし、積まれた段ボールを乱暴に蹴飛ばした。崩れ落ちた段ボールの死角に隠れ、ラックの最奥に潜む乃愛の姿は奇跡的に暴かれずに済んだ。
「おい、ここにはいないぞ! 裏の搬出口から逃げたかもしれん、次を探すぞ!」
外の部下を呼ぶ声とともに、慌ただしい足音が遠ざかっていった。
再び自動ドアの電子音が響き、店内には静けさが戻る。
乃愛は糸が切れた操り人形のように、その場へ崩れ落ちた。奥歯を強く噛み締めすぎていたせいで、口の中には苦い血の味が広がっている。
(博臣さんは本気だ……見つかれば、今度こそこの子は殺される)
港区の自宅マンションに戻ることはできない。あそこは完全に博臣の支配下にある。
頼れる親族は、精神を病んで郊外の療養施設に隔離されている母・清原春子しかいない。だが、今の母には娘の顔すら判別がつかないのだ。
脳裏に浮かんだのは、ただひとつの場所だった。
世田谷区にある、高山家の本邸。
そこには博臣の母であり、高山グループの前代主母である高山貴子が住んでいる。
貴子は冷徹で家柄を重んじる厳格な女性だが、同時に『高山家の血統』に対して異常なまでの執着を抱いていた。もし腹の中の子が博臣の血を引いていると証明できれば、あの一族の最高権力者である彼女だけが、博臣の暴走を止められるかもしれない。
「世田谷まで……行かなきゃ……」
乃愛は倉庫の勝手口から、再び激しい雨の中へと抜け出した。
ゴミ捨て場に放置されていた壊れかけのビニール傘と、サイズの合わない男物の古びたスニーカーを拾い上げ、傷だらけの足に無理やり突っ込む。
世田谷までの距離は、ここからおよそ七キロ。
深夜の豪雨の中、公共交通機関も使えず金もない妊婦が、到底歩き通せる距離ではなかった。
しかし、乃愛の一歩一歩には、腹の底から湧き上がる狂気じみた執念が宿っていた。
雨脚は一向に衰えず、容赦ない水滴が視界を奪う。下腹部が引き攣るように痛むたび、乃愛は電柱に縋り付いて荒い呼吸を整えた。
「大丈夫……大丈夫よ……お母さんが、絶対に守るから……」
胎児に語りかける言葉だけが、凍えそうな意識を辛うじて繋ぎ止めていた。
途中の高架下でたむろしていた浮浪者たちに絡まれそうになったが、乃愛が折れた傘の骨を握りしめ、血走った目で睨み返すと、その鬼気迫る形相に気圧された男たちは蜘蛛の子を散らすように退散していった。
東の空が白み始め、冷たい霧雨へと変わりつつあった午前六時。
乃愛の視界の先に、世田谷の閑静な高級住宅街にそびえ立つ、重厚な黒漆塗りの門と高く聳える塀が現れた。
高山本邸。
乃愛は門扉のインターホンへと震える指を伸ばしたが、ボタンを押し込む力すら残されていなかった。
「お義母様……助けて……」
掠れた呟きとともに乃愛の身体は崩れ落ち、門前の濡れた敷石の上へと倒れ伏した。そのまま、視界は深い闇の底へと呑み込まれていった。
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