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第3章 嵐の対峙と冷血の代償
鼻腔をつく濃厚な白檀の香りに、乃愛は意識を取り戻した。
目を開けると、視界に広がったのは見事な細工が施された格天井と、静謐な和室の佇まいだった。身には清潔な麻の浴衣が着せられ、敷かれた布団の温もりが、凍えきっていた手足を包み込んでいる。
「……気がついたようね」
凛とした、けれど冷ややかな声が部屋の奥から響いた。
上座に置かれた紫檀の座卓の前で、完璧に背筋を伸ばした高山貴子が座している。首元の大粒の南洋真珠が鈍く光り、手首の翡翠の腕輪が微かに触れ合って涼やかな音を立てた。
乃愛は激痛の走る下腹部を押さえ、這うようにして布団から出ると、畳の上に額を擦りつけた。
「お義母様……! 不作法をお許しください……ですが、お願いがございます」
「高山家の正妻ともあろう者が、泥まみれの乞食のような姿で本邸の前に倒れるなど、前代未聞の恥晒しです」
貴子は冷然と湯呑みを置き、乃愛を一瞥した。
「ですが……あなたが懐妊しているというのは、本当なのですか」
「はい……間違いありません。まだ五週ですが、確かに博臣さんとの子どもです」
乃愛は必死に顔を上げ、涙で霞む瞳で義母を見つめた。
「博臣さんは、この子を堕ろそうとしています。私を病院から連れ出し、無理やりに中絶させようとしたのです……! お義母様、どうかこの子をお守りください。高山家の血を引く子です!」
貴子の細い眉が微かに動いた。
高山家にとって、跡継ぎの存在は何よりも優先される。博臣が相川絵梨という女に狂っていることを、貴子も快く思っていなかった。絵梨は相川の娘とはいえ、その出自は定かではない上に足が不自由で、子を成せるかも不透明だからだ。
「……相川の娘に現を抜かして高山の直系を間引くなど、博臣も血迷ったものですね」
貴子は扇子を手に取り、静かにつぶやいた。
「わかりました。その子が本当に高山の血を引いているのなら、私が無事に産ませてあげましょう。検査の結果が出るまで、あなたはこの奥座敷で静養しなさい」
「ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
乃愛は安堵のあまり、畳に涙を落とした。
差し出された温かい葛湯を震える両手で受け取り、一口喉へと流し込む。温もりが五臓六腑に染み渡り、張り詰めていた神経がようやく緩んだ――その瞬間だった。
屋敷の玄関先から、激しい怒号と木材がへし折れるような破壊音が響いた。
「どけ! 邪魔をするな!」
「若旦那様、いけません! 奥様がお休みでございます!」
「黙れ!」
バァン、と凄まじい音を立てて襖が蹴破られた。
突風のように踏み込んできたのは、昨夜と同じスーツのまま、ネクタイを乱暴に引きちぎった高山博臣だった。その双眸は血走り、獣のような殺気を帯びている。
「博臣……!」
乃愛の身体が反射的に竦み上がった。手から湯呑みが滑り落ち、畳の上に熱い液体が広がっていく。
「博臣、何の真似ですか! ここは私の屋敷ですよ!」
貴子が立ち上がり、厳格な声で息子を叱責した。
だが、博臣は母親の威厳など完全に無視していた。泥のついた革靴のまま畳を踏み荒らし、乃愛の元へと大股で詰め寄る。
「上原乃愛……よくも絵梨をあんな目に遭わせておきながら、ここに逃げ込めたものだな」
「違う……私は何もしていない……!」
乃愛が後ずさる間もなく、博臣の長い腕が伸び、彼女の浴衣の襟首を掴み上げた。
ぐらりと視界が揺れ、乃愛の身体は軽々と宙に浮き、床の間の太い紫檀の柱へと叩きつけられた。
鈍い激痛が背骨を走り、肺の空気が強制的に吐き出される。
「うっ……!」
「絵梨はお前のせいでショックから心肺停止に陥り、今も集中治療室で生死の境を彷徨っているんだぞ!」
博臣の顔が見たこともないほど凶暴に歪んでいた。
「お前が病院から逃げ出さなければ、絵梨が取り乱すこともなかった! すべての元凶はお前だ!」
「やめなさい、博臣!」
貴子が割って入ろうとしたが、博臣の手振りひとつで背後のSPたちに阻まれた。
「母さんは黙っていてください。この女は、自分が生き残るためなら平気で人を殺しかけるような化け物だ」
博臣は乃愛を床へ投げ捨てると、右足の革靴を乃愛の下腹部の真上――わずか数ミリの空中に突きつけた。
「博臣さん……やめて……! 赤ちゃんが……!」
乃愛は両腕で必死に腹を抱え込み、小さく丸まった。目の前にある磨き上げられた靴底が、死神の鎌のように見える。
「お前が縋り付いているそのガキを、今ここで踏み潰してやろうか」
男の声は、底知れない冷酷さに満ちていた。
「絵梨が苦しんでいるというのに、お前だけが母親面をしてのうのうと生き延びられると思うな」
「お願い……私を殺してもいいから、この子だけは……あなたの子どもなのよ……!」
乃愛の懇願に対し、博臣はただ冷たく口角を吊り上げた。
そして靴先をゆっくりと降ろし、乃愛の腹部へ冷酷な圧力をかけた。
全体重をかけた踏みつけではなかった。しかし、昨夜からの極度の疲労とストレス、そして打撃の衝撃により限界を迎えていた乃愛の身体には、それだけで致命的だった。
下腹部の奥深くで、何かがブツリと千切れるような鋭い感覚が走った。
「あ……っ……!」
声にならない悲鳴とともに、乃愛の身体が硬直した。
浴衣の裾から生温かい液体が止めどなく溢れ出し、純白の生地を瞬く間に赤黒く染め上げていく。畳の上に、鮮烈な血だまりが広がっていった。
「血が……! 若奥様が出血されています!」
控えていた女中が悲鳴を上げた。
貴子も顔色を変え、SPを突き飛ばして叫んだ。
「博臣、いい加減にしなさい! 本当に殺す気ですか!」
博臣は足元に広がる赤い染みを見つめ、一瞬だけ瞳を揺らした。しかし、その動揺は即座に冷徹な仮面の下へと隠された。
「……病院へ運べ」
博臣はポケットからハンカチを出し、靴の先を拭うと、振り返ることもなく部屋を出て行った。
「絵梨の病室の隣に放り込んでおけ。死なせない程度に処置しろ」
遠ざかる冷酷な命令を聞きながら、乃愛の意識は急速に遠のいていった。
下腹部を襲う激痛の中、彼女はただ、自らの血で染まった手で冷たくなっていく腹部をさすり続けた。
(死なないで……お願い……お願いだから……)
絶望の祈りも虚しく、乃愛の視界は完全な暗黒へと閉ざされた。
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