メインコンテンツへスキップ

第2章 たった一枚の合成写真

クラブ・ルミエールの個室。

室内には煙が立ち込めていた。

松浪健斗はソファにもたれて、足を組みながら、テーブルの上にある菓子を無造作に口に運んでいた。

「なあ慎、本気か?あの瀬戸綾乃を嫁にするなんて」

慎は革張りのソファに深く身を沈め、指の間に煙草を挟んでいた。

健斗は言葉を続けた。「俺が調べたところじゃ、瀬戸家のそのお嬢様は、甘やかされて育ったわがまま娘で、一筋縄じゃいかない相手だぜ。少し前も、あの病弱でひ弱な九条湊のために人と揉めて、街中が大騒ぎになったばかりだ」

「それに比べりゃ、妹の方がまだマシだろ」

健斗は菓子を頬張りながら、面白そうに続けた。「私生児だけど、素直で大人しいし、顔だって悪くない。嫁に迎えりゃ、手もかからず楽だろうよ」

「手がかからない?」

慎は無表情のまま、冷淡に言い放った。「手のかからない女など、退屈なだけだ」

「おっと、なるほど。お前はそういう手強いタイプがお好みってわけか!」

慎はテーブルの灰皿で煙草を押し消した。「この女だ。瀬戸綾乃を妻にする」

「でも、江ノ島市じゃ誰もが知ってるぜ。彼女が惚れてるのは九条湊だって。人の女を嫁にするなんて、お前の面子に関わるんじゃないか」

「結婚はする。だが、どんな形で迎えるかは俺が決める」

その言葉に、健斗は瞬時に身構えた。「……何をするつもりだ?」 「無茶はやめろよ!瀬戸家は由緒ある名家だ。あのお嬢様は箱入り娘なんだぞ!そんな相手に乱暴な真似をするなんて、外道のすることだぞ!」

慎は立ち上がると、まっすぐ出口へと向かった。

健斗はその後ろから叫び続けた。「悪巧みする時は俺を呼べよ!聞いてんのか? 慎!」

瀬戸家の二人の娘が婚約したという知らせは、瞬く間に江ノ島市中に知れ渡った。

三日後、婚姻届の受理通知と、一枚の写真を受け取った。

そこに貼られた写真には、彼女と慎が並んで座っていた。彼女の笑みはどこか引き攣り、彼は無表情だった。

だが問題は、慎がその場に一度も姿を見せていないことだった。

西園寺家が寄越した人間が彼女の単独写真を撮り、それを持ち帰って合成写真を作り上げた。そして、役所に圧力をかけて代理人の押印だけで受理させ、強引に手続きを済ませてしまったのだ。

全過程、わずか二時間足らずの出来事だった。

綾乃はその薄い紙片と写真を握りしめ、あからさまに合成の痕跡が残る写真を見つめた。

前世で知意が西園寺慎と結婚した時は、西園寺家は三日間にわたって祝宴を開き、江ノ島市の有力者の半分が駆けつけたはずだ。

知意は高級オートクチュールのウェディングドレスを身に纏い、慎に手を引かれてバージンロードを歩いた。その姿は、この上なく華やかだった。

それが自分となると、たった一枚の合成写真と一枚の紙切れ 。

しかし、綾乃はその理由を理解していた。

今や江ノ島市中の誰もが、彼女が湊に心酔していることを知っている。それが西園寺家の面子を潰していたのだ。

慎が彼女をこのような扱いをするのは、まずは強く出て、牽制しておく必要があったのだ。

では、知意に対しては?

知意は身分の低い私生児だった。慎が彼女のために盛大な結婚式を挙げたのは、彼女の社会的地位を引き上げるためだ。

この界隈の人間が、二度と西園寺夫人の過去について口を挟めないように釘を刺したのである。

結局のところ、それもすべては西園寺家の体裁のためだった。

つまり、そこには愛など微塵もなく、すべては利益に基づいた計算に過ぎない。

綾乃もまた、慎が自分をどう扱おうと全く気にしていなかった。

彼女が慎を選んだ理由。

それは、西園寺家の権力を利用するためだ。

一方、知意の方も、状況はさほど良くなかった。

湊は体調が優れず、役所へ出向くことすらままならなかった。そのため、同様に形ばかりのものとして済まされていた。

そして、新婚初夜。

綾乃はスーツケースを手に、西園寺邸の門前に立っていた。

外では、小雨がしとしとと降り続いている。

だが、西園寺家の重厚な門扉は固く閉ざされたままだった。

祝いの飾りもなければ、祝賀の気配も一切ない。

賓客をもてなす宴席さえもなかった。

波風を立てぬよう内々に済ませるという名目で、西園寺家からはただ「こちらへ移るように」との通達があっただけだった。

門前に立った執事が、無表情に問いかけてきた。「瀬戸様でいらっしゃいますか?」

「慎に会いに来たわ」

「旦那様は、お会いにならないとおっしゃっております」

綾乃は眉を上げた。「会わない? じゃあ、私はどこに泊まればいいの?」

執事は傘を差し出した。「旦那様のご意向としては、まず瀬戸家にお戻りくださいとのことです。旦那様がお会いになりたいとお考えになった時、改めてお迎えに上がらせます」

綾乃は傘を受け取ったが、その場を動こうとはしなかった。

彼女は執事を見つめ、不意に笑みを浮かべた。「西園寺家の方々は、私を呼んでおきながら今度は帰れと言うの?私を馬鹿にしているのかしら」

執事は依然として見下したような口調で言った。高圧的な態度で答えた。「瀬戸様、西園寺社長にそのような意図はございません」

綾乃は傘を彼の手に押し戻した。「行って、私の言葉をそのまま彼に伝えなさい。この瀬戸綾乃、今日は何が何でもこの門をくぐらせてもらうわよ、ってね」

「旦那様は、瀬戸様がお帰りにならないのであれば、門の前でお待ちいただいても構わないが、決して会うことはないとおっしゃっております」

執事の言葉を聞き、綾乃は静かに頷いた。

(いいわ、やってやろうじゃない!)

どのみち、西園寺慎が一筋縄ではいかない男だということは百も承知だ。

(門をくぐらせない?)

彼女にはいくらでも方法がある。

綾乃はまっすぐ西園寺家の門へ歩み寄ると、おもむろにハイヒールを脱ぎ捨て、巨大な鉄の門を登り始めた。

その光景を目の当たりにした執事は、驚きのあまり顎が外れんばかりだった。

けたたましく鳴り響く警報機。

だが、綾乃は全く気にも留めなかった。

駆けつけた警備員たちも、綾乃の姿を見た途端、一様に言葉を失った。

制止すべきか、否か。

彼らは判断に迷い、立ち尽くすしかなかった。

瀬戸家の令嬢といえば、蝶よ花よと育てられた深窓の淑女ではなかったのか。

それがいったいどうして、門をよじ登るなどという真似をしているのか。

「瀬戸様!」

「私は西園寺家の夫人よ。これが私と西園寺社長の婚姻届受理証明書。自分の家に入るのを、誰が止められるっていうの?」

綾乃は周囲を鋭く見渡した。

警備員たちは誰一人として動くことができない。

それを見た綾乃は、ハイヒールをぶら下げたまま、悠々と邸内へと歩を進めた。

西園寺邸は非常に広大だった。

リビングには明かりが灯っていたが、人影はない。

彼女はリビングの中央に立ち、周囲を見回すと、迷わず二階へと向かった。

階段に足をかけたその時、頭上から声が降ってきた。

「止まれ」

その声は、骨の髄まで凍てつかせるほど冷淡だった。

綾乃は顔を上げた。

そこには、二階の手すりに寄りかかる慎の姿があった。

彼は黒いシルクのガウンを羽織り、襟元ははだけ、髪はまだ濡れていた。

慎は傲然と彼女を見下ろしている。眉をひそめ、瞳にはどこか不可解な色が宿っていた。

「誰が上がっていいと言った?」

「私が、私自身に許可を出したのよ」

綾乃はスーツケースを脇に置くと、彼を真っ向から見上げた。「ねえ、私たちは籍を入れたのよ。新婚初夜だってのに、私をどこで寝かせるつもり?」

慎は目を細めた。

その時、執事と数人の警備員が駆け込んできた。

執事は慌てて報告した。「大変申し訳ございません、旦那様!奥様が……奥様が門を登って入られ、我々では……止めることができませんでした」

(門を登った?)

慎の視線が、生足も露わな綾乃の足元に注がれた。

白いワンピースを着てはいるが、裾は短く、ハイヒールは泥だらけだ。

その脚も、泥だらけだ。

その姿は、名家の令嬢とは程遠いものだった。

慎は彼女の前まで来ると、足を止めた。彼が軽く手を振ると、一階にいた執事と警備員たちは一斉にその場から離れて行った。

慎は彼女との距離を、ほとんど感じさせないほどに縮めていた。

彼から漂う微かな酒の香りと、煙草の匂いが鼻をくすぐるほどに。

彼は彼女を見下ろし、不意に笑みを浮かべた。

その笑みは、背筋が凍りつくほどに冷ややかだった。

「綾乃」 低い声が響いた。「婚姻届を出したからといって、西園寺家の女主人になったとでも思っているのか?」

綾乃は一歩も引かない。

真っ向から彼の視線を受け止め、一言ずつ言い切った。「ええ、籍を入れた以上、私は西園寺夫人よ」

慎は眉を上げた。

「いいだろう」

彼は手にしていたグラスを脇に置いた。「では教えてくれ。西園寺夫人が迎える最初の夜は、どこで眠るべきだと思う?」

綾乃は彼を見つめ返し、ふっと微笑んだ。

彼女は踵を返し、リビングのソファまで歩み寄ると、そこに腰を下ろした。

「ここよ」

慎は一瞬、呆気にとられた。

綾乃はソファに身を預け、汚れたハイヒールをそのままゴミ箱へと放り込んだ。「あなたが二階に上がらせないと言うのなら、ここで寝るわ。どのみち私は西園寺夫人なんだから。どこで寝ようと、その事実に変わらないもの」

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全221章

  1. 第1章第1章 生まれ変わり、結婚相手の選定日に戻る
  2. 第2章第2章 たった一枚の合成写真
  3. 第3章第3章 西園寺夫人と認められるまで

新着