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第2章 雲の上の庇護と渦巻く嫉妬
滑らかな減速とともに、地下専用駐車場の防音舗装をタイヤが噛む音が低く響いた。
理人は、肩口に寄りかかる葵のかすかな重みを感じていた。呼吸は細く、頼りない。その手は無意識のうちに、理人のシャツの裾を固く握りしめたままだ。
理人は指先を伸ばし、その強張った指を一本ずつ解こうとした。だが葵は悪夢に怯えるように眉を寄せ、さらにぎゅっと布地を握りしめて離そうとしない。
「……仕方ないな」
低く呟いた理人は、引き剥がすのを諦めた。自分のジャケットで彼女をすっぽりと包み込むと、再びその細い体を横抱きにし、車外へと足を踏み出した。
専用エレベーターは一切の振動もなく、最上階の特別VIPフロアへと直行する。
扉が開いた瞬間、白衣を羽織った青年が目を丸くして立ち尽くしていた。五十嵐病院の院長子息であり、理人の数少ない友人でもある五十嵐悠真だ。
「おいおい、理人。緊急搬送って言うからどんな重病人かと思えば……その泥だらけのお姫様は誰だ?」
悠真が面白がるように口元を歪めた瞬間、理人の氷刃のような眼光が突き刺さった。
「黙れ。すぐに精密検査だ。外傷と目の状態を診ろ」
理人の低く威圧的な声に、悠真は瞬時に医師の顔へと戻った。
「了解だ。ストレッチャーを用意しろ!」
看護師たちが慌ただしく駆け寄り、葵の体は無菌の処置ベッドへと移された。理人のシャツから葵の指が離れた瞬間、彼の胸元には濡れた皺と泥の跡がくっきりと残されていた。
ガラス張りの診察室の外、理人は腕を組み、冷徹な表情のまま微動だにせず立ち尽くしていた。だが、その指先が無意識のうちに一定のリズムで壁を叩いている。苛立ちと焦燥の証拠だった。
一時間後、処置室の扉が開き、悠真がカルテを手に歩み出てきた。
「命に別状はない。足首は軽度の捻挫、あとは全身の打撲と擦り傷だ。栄養失調も酷いが、点滴で回復する。……ただ、目だな」
悠真は声を潜めた。
「視神経の圧迫による一時的な盲目状態だ。放置すれば完全に失明するが、うちの設備と海外の最新術式を使えば、視力を取り戻せる可能性は高い」
「全力を尽くせ。金に糸目はつけない」
理人の即答に、悠真は驚きを隠せない様子で眉を上げた。
「そこまで肩入れするなんて珍しいな。あの冷血な原野総帥が」
「……祖母の命の恩人だ。それ以上の理由はない」
冷たく言い捨て、理人は病室のドアノブに手をかけた。
病室内は静まり返っていた。高級な加湿器のかすかな動作音と、点滴の滴る音だけが響いている。
ベッドの上で、葵の長い睫毛がかすかに震えた。
「……ん……っ」
喉の渇きと、鼻をくすぐる上質な消毒液の香りに、葵はゆっくりと意識を浮上させた。視界は依然として暗闇のままだが、敷かれているシーツの尋常ではない柔らかさが、ここが柿崎家の薄汚れた物置部屋ではないことを物語っていた。
葵は身を起こそうと、恐る恐る手を伸ばした。その手がサイドテーブルに触れ、置かれていたガラスのコップが床へと滑り落ちる。
パリン、と硬質な破砕音が静寂を切り裂いた。
「っ……!」
葵が怯えて身を縮めた瞬間、規則正しい革靴の足音が近づいてきた。
「動くな。破片を踏む」
雨の夜に聞いた、あの深い声音だった。
葵はシーツを胸元まで引き上げ、警戒を露わにして声のする方へと顔を向けた。
「あなたは……どなたですか? どうして私を……」
理人は割れたグラスの破片を革靴で脇に払い、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。葵の怯える気配を察し、普段の威圧感を意識的に抑え、平坦なトーンで告げる。
「お前が雨の日に助けた、あの老婦人の孫だ」
「……あのおばあさまの?」
「そうだ。祖母から話を聞き、恩返しのために探していた。お前が路地で男に襲われているところを偶然見つけて、ここまで連れてきた」
葵の強張っていた肩から、すっと力が抜けた。
「そう……だったんですね。助けていただいて、ありがとうございます。でも、もう大丈夫ですから……これ以上ご迷惑はかけられません。退院します」
そう言って手探りでベッドから降りようとする葵の動きに、理人の眉がぴくりと動いた。
理人は無言のまま手を伸ばし、葵の細い肩を掴んでベッドへと押し戻した。
「あっ……」
逞しい手のひらから伝わる熱と力強さに、葵の息が止まる。至近距離から注がれる男の気配に、頬がカッと熱くなった。
「大人しく寝ていろ。治療費はすべて俺が持つ」
「でも、そんなわけにはいきません! 見ず知らずの他人にそんな大金を払ってもらうわけには……」
「見ず知らずではない。命の恩人だと言ったはずだ」
理人は有無を言わさぬ口調で遮った。
その時、葵のお腹が小さく「ぐう」と音を立てて鳴った。丸一日以上、何も口にしていなかったのだ。
葵は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にし、両手で顔を覆った。
理人はその姿に、口元をわずかに緩めた。
「……待っていろ」
理人は部屋の外に控える護衛に指示を出し、病院の厨房に最高級の米と出汁で炊かせた白粥を用意させた。余計な詮索を避けるため、あらかじめ用意させた簡素な保温容器に移し替えて運ばせる。
理人は蓋を開け、湯気の立つ粥をスプーンですくうと、息を吹きかけて冷ました。
「ほら、口を開けろ」
「えっ……自分で食べられます!」
葵が慌てて手を伸ばすが、視界を奪われた手探りでは、スプーンに触れることすら叶わない。
「いいからじっとしていろ」
理人は彼女の反論を一蹴し、温かなスプーンを葵の柔らかな唇へとそっと押し当てた。
葵は躊躇いながらも、小さく口を開いた。優しい出汁の風味が口いっぱいに広がり、冷え切っていた内臓がじんわりと温まっていく。
二人の距離は、互いの吐息が触れ合うほどに近かった。
その様子をドアの小窓から覗き見ていた悠真は、信じられないものを見たように口をあんぐりと開けていた。
悠真はポケットから素早くスマートフォンを取り出すと、親しい名流子弟たちの非公開グループチャットにメッセージを打ち込んだ。
「大ニュース。あの万年氷山・原野理人が泥だらけの女を抱きかかえてうちの最上階VIPに連れ込んだ。しかも自ら看病してるぞ」
その投稿は、深夜の社交界の裏ネットワークを一瞬で沸騰させた。
港区の会員制高級サロンでネイルの施術を受けていた大倉愛理は、画面に浮かび上がったテキストを目にした瞬間、息をのんだ。
「……なんですって?」
指先が激しく震え、ネイリストのやすりが愛理の皮膚をわずかに掠めた。
「痛っ! どこ見てるのよ、この無能!」
愛理はネイリストの手を乱暴に払いのけて立ち上がった。
大倉家の令嬢として、幼少期から原野理人の隣に立つのは自分だけだと信じて疑わなかった。あの理人が、女を抱き上げて病院に連れ込んだ?
『悠真、どういうこと?! どこの泥棒猫よ!』
愛理は通話ボタンを押し、電話口で甲高く叫んだ。だが悠真は曖昧に笑って言葉を濁すばかりだった。
怒りと嫉妬で視界が真っ赤に染まる中、愛理は限定品のバッグを乱暴に掴み取ると、サロンの出口へとヒールを鳴らして突き進んだ。向かう先は、五十嵐病院のVIP病棟だった。
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