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「貴様、何を言っている!」 健の顔が、怒りで歪んだ。円の「商業提携」という言葉が、彼のプライドを根元からへし折ったのだ。 彼は円の腕を乱暴に掴んだ。暴力で屈服させようという浅はかな思考が、透けて見える。 「お前は誰だと思っている? 俺が、荒木家が買ってやった商品だろうが!」 円の目が、すっと細められた。 掴まれた手首を、ありえない角度でひねる。スイスで習った擒拿術の基本。関節を的確に狙った動きに、健が「ぐっ」と苦悶の声を漏らした。 腕力ではない。技術だ。 健が思わず手を離した瞬間、円は間髪入れずに動いた。 ハイヒールの踵が、健の膝の側面、最も脆い一点を正確に捉える。 「がっ……!」 健の体がバランスを失い、屈辱に顔を歪めながら片膝をついて崩れ落ちた。 「健様に何するのよ!」 綾子が金切り声を上げ、狂ったように円に飛びかかってきた。何の章法もない、ただのヒステリーだ。 円は綾子の突進を半身でかわす。すれ違いざま、体重を乗せた肘を、がら空きの綾子の脇腹に深くめり込ませた。 「うぐっ……!」 綾子はエビのように体をくの字に折り曲げ、その場にうずくまって嘔吐いた。 円は、床に膝をつく男と、うずくまる女を静かに見下ろした。 「どうやらお二人には、私達の間の新しい力関係を理解していただくために、少々物理的な治療が必要だったようですね」 その声は、氷のように冷たかった。 「この……気狂い女め!」 健が、膝の激痛に顔を歪めながら、やっとのことで立ち上がる。彼は震える指を円に向けた。 「離婚だ! 貴様とは離婚してやる!」 「離婚」という二文字。それを聞いた瞬間、円の心に残っていた最後の未練のかけらも、完全に消え去った。 彼女は笑った。華やかに、そして皮肉に満ちた笑みだった。 「ええ、結構ですわ」 円はあっさりと答えた。 「ですがその前に。清算していただくものがございます」 彼女はハンドバッグからスマートフォンを取り出し、画面を二人に見せつけた。そこには、はっきりと録画中の赤いマークが点灯している。 「あなた方が情事に耽っていた、その一部始終の証拠です」 健と綾子の顔から、血の気が引いていく。円が部屋に入った瞬間から、全て計算ずくだったのだ。 「選択肢は二つ。一つは、私が満足する慰謝料をお支払いいただき、協議離婚に応じること。そうすれば、この映像は誰の目に触れることもありません」 円は続けた。 「もう一つは、法廷でお会いすること。そうなれば、荒木家ご嫡男の輝かしい『新婚の夜』を、日本中の皆様にご覧いただくことになりますが」 健は屈辱に全身を震わせた。こんな脅迫、こんな屈辱は生まれて初めてだった。だが、映像という決定的な証拠が、彼の手足を縛る。 「健様、だめ! こんなの、ただの恐喝よ!」 綾子が泣きながら健のズボンに縋りついた。 円はその哀れな芝居を、冷ややかに見下ろした。 「恐喝? 私は荒木家の正妻として、法的な権利を守ろうとしているだけです。それに比べて、あなたは?」 円は綾子の前にしゃがみこみ、その顎を掴んで無理やり上を向かせた。 「表舞台にも上がれない、ただの私生児。人の家庭を壊す泥棒。西園寺家と荒木家、どちらがあなたを守ってくれるのかしら?」 その氷の視線に、綾子は心の底から恐怖を感じた。 円は、汚らわしいものでも触ったかのように手を離し、立ち上がって指先を拭う。 そして健に、最後通告を突きつけた。 「24時間、考える時間を差し上げます。私の弁護士から、追って連絡させますわ」 「……西園寺円! 後悔させてやるぞ!」 健が歯の根もきしまんばかりに唸った。 円はそんな彼を鼻で笑い、背を向けた。 部屋を出る直前、彼女は振り返り、とどめの一言を放った。 「ああ、それから。今夜のこの部屋のお代、もちろん荒木家の請求書でお願いいたしますわよね? 私の夫の大事な『お客様』をもてなすための費用ですもの」 その言葉は、健の顔面に叩きつけられた見えない平手打ちだった。 円は障子戸を開け、支配人や仲居たちの驚愕の視線を浴びながら、胸を張って料亭を後にした。 部屋には、無様な姿の二人と、死んだような沈黙だけが残された。

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章一覧

全80章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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